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離婚にまつわるコラム

私の結婚は初めからギクシャクしていました。「誤魔化しつつ過ごす日々」へ別離

最近、結婚生活をおくる友人宅へ招かれると、そのフェアな生活に驚きます。フェアというのは、男性も女性と同様、いえ、それ以上に家事に積極的だったり、育児参加をしたり。女性が外で働くので当然と言えば当然でしょうが、それでもなかなかできない、ということを私も最初の結婚生活で実感しました。

 

私の場合は、最初の結婚は「結婚生活」ではなく、「家政婦生活」だったのです。

 

最初の主人、時田(仮名)とは、私が大学生の頃に知り合いました。知り合った場所は、私のアルバイト先のカフェです。時田の経営する歯科の近くにあり、彼が昼過ぎにランチを食べに来るうちに、顔見知りになりました。時田は、21歳も年上ながら、その年齢を感じさせない、はつらつとした外見、歯科開業医という恵まれた経済状況、趣味はゴルフと海外旅行…。当時22歳の私にとって、時田はまさに「デキる大人」の代表のように映りました。知り合ってすぐに、お付き合いがはじまりました。

 

どうして、交際期間中に、少し立ち止まって「時田」という人間をじっくり見ることができなかったか、それは今だから悔やまれることで、当時の私は「年上でリッチでスマートな彼氏」の時田に舞い上がっていたように思います。

 

お付き合いをしている時のことですが、その頃、私は大学生で、就職が決まった後ということもあり、コンパやサークル活動を満喫していました。一方、時田とは、彼が仕事の終わった夜に食事に出掛けたり、またお休みがとれれば、旅行にも一緒に行きました。デート代は全て年上の彼持ちでした。私は彼とのデートも楽しみつつ、残り少ない大学生活をエンジョイしようと思っていたのです。

 

そんな折り、ある日、彼が私の離席中に携帯電話をチェックしているのを見てしまいました。「どうして私の携帯を見ているの?」「見られちゃまずいの?」「そうじゃなくて、なんで他人のものを見るの?」「だから、見られてまずいことがあるから、そう言うのでしょう」と延々と不愉快なやりとりをした揚げ句に、彼が逆上しました。「アドレスに登録してある男の名前を全部消せ」というのです。友だちとの話題でそのような嫉妬深い男性の話を聞いたことがありましたが、まさか、年上でいつも余裕のある時田が、そんな風に豹変(ひょうへん)するなんて驚きと言うより、こわくなりました。

 

しかし、普段は真面目に仕事もし、常に私の意見を優先してくれる優しい彼です。時々「あれ?」ということはありましたが、歳の差ゆえに、価値観や感覚が違っていても仕方ない、と思い、携帯の件は流して過ごしました。そして、2年近くの交際後に結婚しました。

 

時田の実家は、その地方では有名な大きな歯科医でした。彼の母親も歯科医で当時70歳近かったのですが、現役で活躍していました。義母は離婚して一人住まいでした。徒歩5分ほどの場所に、クリニック、彼の実家、彼の自宅がそれぞれあり、私は当然彼の家に一緒に住み始めました。仕事のできるハキハキした義母とも上手くやっていけそうで、自分は恵まれているなとすら思いました。

 

結婚後、ある日義母が「裕子さん、明日の土曜の午後あけておいてね」と言いにきました。私は、お買い物かしら、というほどに思いながら、当日を迎えました。そして、その日義母に案内されたのは、なんと予想もしていなかった新興宗教の集いでした。私自身は、ほぼ無宗教で私の実家も信仰の薄い浄土真宗だったために、新興宗教にはある意味偏見があったのも事実です。なかなか受け入れ難く抵抗がありました。しかし義母は「このお話を聞いて、ぜひあなたもこの家の人間なんだから、この宗教に入りなさい」と言うのです。まだ大学を出たてで結婚したばかりの私には、その申し出をやんわりと、しかしきっぱりと断るような技量がありませんでした。

 

それから、その新興宗教にことあるごとに、呼び出され、集いや地区会に参加、お布施を払わねばならない日々が始まったのです。時田(夫)は、なんと見て見ぬ振りでした。彼自身もその宗教に入会していたのですが、若い時に人間関係でこじれ、それ以来宗教から遠のいている、と人から伝え聞きました。しかし、なぜ、妻の私に自分の家の宗教を話してくれなかったのか、また私がイヤイヤ宗教行事に出かけさせられるのを、黙って見過ごすのか、私には、全く理解できませんでした。しかし、結婚当初はそれでも、「文句は言わずに旦那様に付いていこう」という気持ちがありました。

 

その私の気持ちを大きく揺さぶる事件がありました。結婚後も、私は派遣社員として働いていたのですが、毎日決まった時間に帰らないと夫が不機嫌になるので、社内の付き合いもすべて断り、毎日電車に乗り遅れないように、必ずお夕飯の支度ができるいつもの時間に帰れるようにしていました。しかし、その日は社内の行事があり、派遣の私たちは思わぬことに早く帰ることができたのです。久しぶりの余裕のある時間の帰宅に私はウキウキしていました。すると、なんと家では、夫がベッドで寝ていたのです。勤務時間のはずなのに…。当然、彼は気づいて、一瞬気まずそうにしながらも「早く帰るならば、そのように電話しろ」と逆ギレしました。以前に「携帯の男の名前を消せ」と憤怒した時と同様の、感情が炸裂(さくれつ)するような怒り方、キレ方に私はこわくなって、そのまま家を飛び出し近所の公園に走って逃げました。震えがとまりませんでした。普段は紳士然とした夫が、声を荒げ顔を真っ赤にして怒り出したのです。しかも、私にはどう考えても非がありません。しかし、この結婚に、歳の差を理由に猛反対した自分の両親の家には簡単には帰れませんでした。その日は自宅にどうしても帰れず、彼の勤務する実家のクリニックに泊まりました。ここには、住み込みのお手伝いのお姉さんがいて、私に何かと世話をやいてくれたのです。そこで、さらにその夜、驚くべき事実を知りました。

 

なんと、彼は歯科医でありながら仕事をしていなかったのです。義母の経営するクリニックの歯科医という名刺だけを持ち歩き、実際はもう何年も患者を診ていない、というのです。以前に患者さんから医療ミスだ(実際は違ったようです)と、言われてから自信をなくし、もう歯科医としては働いていないのだそうです。しかも、それは周知の事実で、妻の私だけが蚊帳の外に置かれていたのです。義母も私を騙していました。このことに私は腹ただしいよりも、悲しくなりました。それは、私が年下だからか、信用されていないのか…。それと同時に毎朝、同じ時間にまるで勤務していたかのように家を出て、彼はどうしていたのだろう…という疑問も生まれました。毎日、どこで何をしていたのか?

 

翌日、自宅にもどると、夫はいつも通りでした。クリニックから私がそこに泊まったと連絡もはいったようです。開口一番「反省した?」と聞いてきました。もう、私には答える気力もなかったのは、言うまでもありません。そのまま2階へあがり、ベッドにもぐりこみ、声を殺して泣きました。すると、彼が追ってきたのです。「どうしたの?」とやけに優しい声で聞きます。私は堪えきれなくなって、クリニックで聞いた話を繰り返し、毎日どうしているの?と尋ねました。意外にも彼は冷静で、「いつか話そうと思った」と言うのです。彼の話では自分はもう歯科医としてはやっていけないので、義母の病院の経営を任されている、というのです。彼の話と昨夜お手伝いのお姉さんから聞いた話には、確かに矛盾がありましたが、疲れていた私は納得して眠りにつくしかありませんでした。

 

その日から、歯車はさらに狂いました。

 

勤務歯科医でないことが、ばれてしまってから、夫は朝早く家をでることがなくなりました。一方、派遣社員の私は8時前には家を出ます。私としては家事を少しでも手伝ってほしいのですが、夫は全くそんな素振りをみせませんでした。家事、親戚づきあい、事務処理は結婚当初からすべて私がやって当然でした。しかし、銀行関係などお金の関係することだけは、夫が私には、やらせません。クリニックの経営で一体どのほどのお給料なのか、将来に備えての貯蓄はどうしているのか、全く話してくれないのです。「俺がやっているからいい」と誤魔化されてしまいます。私はまるで家政婦のようでした。しかも自分のものや、家の食材等の買い物はすべて私の給与から出していたので(夫からお金の話を一切されずに結婚し、買い物も1人で自分のお金で毎回していたのです)、私は働いても全く貯金ができないのです。何かフェアじゃない…と感じ始めてしまいました。そこで、「家の食材費等はやはりあなたにも負担してほしい」とお願いしました。ちなみに自宅は一軒家でローンはなかったものの、車(外車)2台維持費、光熱費、食費、交際費など普通の家庭同様にかかっていました。すると夫は「それならば、食費、光熱費、その他含めて全部で10万円以下でやりなさい」というのです。生活費10万円…。「その10万円で残ったら自分の服など買ってもいいから」と恩着せがましく付け加えました。4万円のネクタイを買い、六本木でスーツをオーダーし、BMWに乗りながらも、1ヵ月の生活費を10万円以下で賄え、というのです。夫が学生や職が不安定で二人で働き苦労しようね、というのなら10万円の生活費でもいいでしょう。しかし夜遊びをしては散財し、それすら自慢する人が、どうして家計にこんなにケチなのか…。結局毎月、10万円で足りない分は私のお給料から足すことになり、私は相変わらず、自分自身の貯金ができない生活でした。

 

しかし、普段の生活はいたって平凡でした。平日は、私は仕事と家事、休日には2人でドライブに行ったりすることもあります。時々は温泉宿に行き「お若い奥様でいいですね」などという仲居の言葉にうれしそうな夫がいます。傍目には、仲のいい歳の差夫婦に見えていたかもしれません。

 

それでも、家では確実に私の中に不満が溜まっていきました。

 

夫はスキーが趣味でした。冬になると必ず信州に出かけます。私も恋人時代に何度か一緒に出かけました。

それは、結婚後に初めて一緒に再び信州に行ったときです。一軒の中古住宅のもとに連れていかれ、「ここに引っ越すから」というのです。突然すぎて驚きました。何の相談もないままに、引っ越しを決めるなんて…。彼曰く、自分の体(彼は喘息がありました)のことや、周囲の環境を考えると、この場所での生活が自分にはいい、しかも義母も賛成しているので、私には相談すらしなかった、というのです。自宅も売る算段がすでに整っているらしいのです。こんなバカな決め事があるか、と思いました。何の相談もなく、引っ越すなんて…。しかし、事前に相談があっても、当然ながら私の意見は受け入れてもらえなかったと思います。それでも、遠方への引っ越しを勝手に決めるということが、私には納得できずに、許せませんでした。さすがに、この時は「考えさせてください」と自分の実家に戻りました

 

私の実家は、父は会社員、母は専業主婦という一般的な家庭でした。兄家族が近所に住み、時々両親の面倒をみてくれます。この平凡だけれど幸せな風景に、実家に戻った私は思わず涙ぐんでしまいました。私の選んだ結婚って何だったのだろう…と。

 

昔堅気の両親には「自分の選んだ人で、親の反対を押し切って、一緒になったんだ、付いていきなさい」と言われました。そして、自宅に帰る決心のついた夜に、母がそっと来て「何かあれば、帰ってきていいよ」と封筒に入った5万円をくれました。後に、この5万円で本当に帰郷することになるとは、その時には思いもよりませんでした。

 

信州での生活が始まりました。夫は週に1度自分のクリニックに戻り、仕事をしながら1泊して帰ってくる、という生活でした。もちろんこの当時も生活費は10万円、新興宗教の集いには、この地でも参加せねばなりませんでした。そして、私はこの田舎に近所にお友だちもいなく、退屈で1日が恐ろしく長い暮らしでした。そんな折に、電車で通勤できる場所にある会社が、女性の事務員を募集していました。私は夫に断って、再び働き始めました。ここでの仕事は事務とはいえ、責任のある内容を任され、やりがいもありました。また職場の人間関係もよく、昼間は楽しく過ごせました。そんな私のことを、仕事もなく毎日家で過ごす夫が面白いはずがなかったのです。

 

ある日、職場で私の歓迎会と称してボーリングと食事に行こうという企画がありました。「称して」と言いながらも、一応私の歓迎会です。私が欠席するわけにはいきません。夫もしぶしぶ承知して、その日は初めて仕事の後に、ボーリング、食事にと楽しめました。そして帰りに夫に電話を入れると、夫はすでに酩酊していました。判別できない口調で何か言い、ともかく不機嫌です。

あわてて帰りました。帰り道で初めて「もう嫌だ、一緒に暮らせない」と思いました。

帰宅後、夫から「なんで電話しないんだ」と叱られました。

「帰りに電話したのに」

「どうして途中でしないんだ、俺の食事はどうするんだ」

食事をして帰ってくると言ってあるのならば、自分で用意するのが大人ではないでしょうか。

さらに「電話のあとに45分もかかっている。おかしい、30分で帰れるはずだ。15分間、どこで何をしていた?」

と絡むのです。確かに、駅の化粧室に行き、電車を1本逃しました。しかし、それのどこがいけないのでしょう。

 

もう、限界でした。酔い潰れて寝た夫を無視して、母から預かった5万円と、自分の貯金通帳、目についた服をバックに詰め込んで、そのまま家を出ました。

 

実家は私を温かくとはいわないまでも、普通に迎えてくれました。やはり最初から歳の差、環境の差、そして後に宗教の差などがあったことで心配をしてくれていたようです。親はありがたい、と心に沁みました。そして、その日は泥のように眠りました。

 

実家に帰ったはいいものの、この先のことを夫とは、いつか話合わねばなりません。しかし、彼からも電話すらなく、一時は独身のような錯覚さえ起こしながら実家での1週間を終えました。両親ももう「夫に尽くしなさい」とは、言わなくなりました。私の中では、すでに答えはでていました。その答えとは「離婚」です。かわいがってくれた義母や、クリニックのスタッフ、実家の家族には申し訳ないと思いましたが、他に選択が思いつきませんでした。

 

しかし、実家に帰ってちょうど10日目、夫が何食わぬ顔で玄関に現れました。

 

実家の母に挨拶をし、手土産をわたし(この時まで私の実家に一切土産など持ってこない人でした)私に「帰ろう」と言うのです。その感覚を疑いました。実際の暴力はなかったものの、数々の言葉の暴力、干渉、束縛、もう嫌になるのに十分な行動をした後に、自分の妻だから当然だ、帰ろうと言ったのです。私がいなくて、確かに不便でしょう。気にいった信州でしょうが、スーパーは遠く、しかも夫は食材の買い出しにいったこともありません。家のなかの、どこに何があるか、興味もなかったでしょうし、知らないでしょう。公共料金の支払いすら、自分でやったことのない人なのです。

 

でも、私は便利な家政婦さんには、もう戻りたくありませんでした。「帰りたくない」とやっとの思いで拒否しました。すると、「服が足らないだろう。一回帰って服を持っていきなさい」と言うのです。しかし、一度自宅に戻ると、もう外出すら自由にさせてもらえないのではないか、と本気で思いました。服は後で取りにいくから、今は帰りません、と告げました。夫は来た時の愁傷な態度とは打って変わって、私をギロリとにらんでから無言で帰りました。

 

確かに、着の身着のままで手近なものだけしか持ってこなかったので、別居、離婚と進むには、その前に一度信州に戻り、身の回りのものを整理せねばならないのも事実です。私は幸いにも自宅の鍵をもっていたので、夫がクリニックに行っている時に、自分の荷物を取りに帰りました。そして、リビングの机に宗教の退会届を、判をおした離婚届けとともに置き残し、再び実家に戻りました。それは、「もしも彼が何か理不尽な条件を出してきても、それを飲んででも離婚したい」という強い意志のもとの行動でした。

 

夫からは、なぜかすぐに連絡がありました。離婚届を書き損じてしまったから、もう一通書いてくれ、と淡々と言うのです。幼稚な嘘かもしれませんが、それで離婚届けが提出されなければ、前へ進めません。外で会うのを条件に、夫に会いました。夫は始終無言でした。離婚届けを渡した時に「出せばいいんだろ」とぶっきらぼうに言っただけです。本来は、この時にお金の分与等の話をすべきでしたが、離婚届けのことで頭がいっぱいで、若い私にはそこまで気がまわりませんでした。

 

そのまま私は実家で過ごしました。実家に迷惑をかけないために、再就職もしなければなりませんが、2ヵ月経っても、3ヵ月過ぎても、何の音沙汰もありません。仕方なく時田の携帯に電話しました。「離婚届は?」「まだ出していない。俺が出すのか?」とまた大声で怒鳴られ、電話口で不快な思いに襲われました。努めて冷静に「私が提出します。なので、私に渡してください。そのために会いましょう」と話をしました。彼もしぶしぶOKしました。そしてその翌日、かれの実家の近く、私たちが短い間ですが新婚生活を送った街で時田に会いました。

 

会うなり、「信州の家は売るから」とあの私を追い詰める声と目線でいいました。私には返事ができません。そもそも彼が勝手に買った家なのです。早くこの場を去りたい気分でした。その他にも、自分が今家事をせねばならないので、いかに大変か語りました。もう、その勝手な言葉は覚えてもいません。一緒に暮らしていた時は、私がすべてやって当然、という顔で新聞を読んでいた人です。

 

最後に離婚届をやっと渡されて、帰りました。

 

彼の姿が見えなくなって、ようやっと息ができるような気分でした。

 

しかし、その夜に彼からの報復ともいえるべき出来事がありました。当時私が何かと相談をしていた以前の職場の男性に、彼が電話をしたのです。「お前のせいで離婚だ。どうしてくれる」と。私とその男性は仲がよかったものの、付き合ってはおらず、ましてや微妙な時期だったので、変な誤解をされないように、極力他の男友だちとも連絡を取り合いませんでした。被害にあった男性に申し訳なさでいっぱいになりました。しかし、どうして、この男性の電話番号を時田が知ったのか?今でもわかりませんが、おそらく調査機関を使って私の行動をすべてチェックするくらい何ともなかったのでしょう。

 

幸いにもその男性は時田に絡まれただけで、直後に携帯の番号を変えそれ以上の被害には合いませんでした。

 

数日後、市役所に離婚届を提出に行きました。離婚は結婚よりもエネルギーが要るものだとこの1枚の紙を手に痛感しました。

 

経済的に豊かな男性との結婚でしたが、結果的に私の手元には時田のお金も物も残りませんでした。それでも、ともかく別れたいという一心だったので、仕方ないとも思います。手元に残ったのは、自分のわずかな貯蓄の通帳だけです。25歳の私には、時間の方が争って何かを手にいれるより重要に思えました。ともかく、早くこの立場、場所、環境から逃げたいと思っていたのです。

 

離婚してしばらくしてから、以前に派遣で働いていた会社に再就職ができました。名字の変わった私に対して、気遣う人たちもいましたが、あえて、みんなが私を知っている場所で、隠すことなく社会に出たいと思ったのです。真面目に仕事をこなすうちに周囲もだんだんと離婚のことを忘れてくれたようで、彼氏と別れようかという相談もされるようになりました。

 

私は自分の過去ですから、話すこともしなければ隠すこともせずに今でも過ごしています。

 

離婚は犯罪ではありません。新たな自分に踏み出す一歩だと思います。もちろんそのために傷つく人はいます。私の両親も兄も、私が結婚した時も離婚した時も泣きました。この先どうするの?と何度も問われました。しかし、結婚相手とは、生涯のパートナーなのです。親よりも自分の子どもよりも長い時間を共有せねばなりません。二人きりの長い時間です。私は時田とその時間を持つことが、恐ろしいと思いました。全く楽しみではなく、ただただ一緒にいる時間をビデオの早送りのように、送ってしまいたいと思いながら生活したのです。その暮らしは間違いでした。

 

私自身を振り返っても若さに任せて、勢いで結婚したところもありましたし、年上のスマートな男性という外見だけでしか、結婚相手を判断していなかったと思います。そして、私自身にも時田の神経を逆なでするような言動があったのかもしれません。今となっては反省すべき点です。

 

そして、私たちは何よりも話合いができでいなかったのでギクシャクとした結婚生活でした。私たちが、もっと打ち解けて話合えていたら、違う結果になったのかもしれません。しかし、時が経つにつれて、話合うという単純な理解の方法がとてつもなく難しいものに変わりました。無言で過ごす時間が長くなりました。それでも、「生活があるから」と自分すら誤魔化して暮らしたのです。

 

ただ、自分を誤魔化し続けるには、限界がありました。時田の足音を聞くだけで息が荒くなってしまう、携帯に時田からの着信があると不安で胸がドキドキする…こんなことが日々積み重なっていながらも誤魔化すのは、不可能でした。

 

離婚して2年後、現在の夫と結婚しました。夫は中学時代の同級生です。真面目で不器用ですが、嘘をつかない人です。私も働いています。夫も家のことをやってくれます。お夕飯には2人で話し笑いあいます。毎日の何気ない幸せを大切にしたいと感じます。

 

これがフェアな結婚生活なんだ、と最初の結婚時より大人になった私は思います。

 

時田とはその後一度も連絡をとっていません。一度は一緒に生きていこうと決心をした男性ですから、彼なりに幸せになっていてほしいとは思います。しかし二度と会いたくありません。彼と過ごした時間は無駄ではなかったのかもしれませんが、思いだすと、今でも息苦しくなります。

 

時田との結婚は間違いであったのかわかりませんが、これだけは自信を持って言えます。この離婚は決して間違いではありませんでした。

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