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離婚にまつわるコラム

ギャンブル好きの夫が原因でノイローゼに

体中に響き渡る郷愁あふれる、「ムーンリバー」の歌声、薄暗いジャズ喫茶でルイ・アームストロングの奏でるジャズに私は心を奪われていました。

調度手を伸ばしたあたりにコーヒーカップが置いてあり、一口飲んでみたら、ほのかにブルーマウンテンの香りがして、今やっとどこからか意識が戻って来た様な気がしました。何でここにいるのだろうか、誰も怒る人などいないけれども、傍にいてくれる人もいない、私は独りぼっちでジャズ喫茶の椅子にもたれていたんです。そして、独りを自覚した途端になんだか急に寂しさがこみ上げて来て、目頭が熱くなり、涙が溢れてしまいました。既にサッチモの曲は「素晴らしき世界」に変わっていました。

高校時代の私は、ブラスバンド部に所属していて、ドラムからサックスそしてクラリネットにフルートと、やたら楽器をいじりまわすのが大好きで、ジャズに浸透していました。あげくの果てに将来何をしていいのかみつけられずに、とうとう大学進学はしませんでしたし、就職活動もしなかったんです。言うことだけは一人前で、行動が伴わない理想ばかりの地に足のついていない生き方をしていたようです。

父は私が三歳の時に交通事故で亡くなり、公務員の母と二人だけの生活は、自由だけれども自己責任という環境で育ちました。そして面倒な問題も何も起さずに、順調に過ごしていたんです。高校卒業後約二年も、進路決定もせずに、今でいうフリーターのような生活をしていたんですけれど、ある日母に「退職したら再婚しますから」と言われたんですね。私たちが住んでいる所は母のマンションだったので、「そのまま住んでいいからきちんとした仕事に着くように」と言われてしまいました。

今思うに、母は母なりに私が自立するように仕向けてくれたのかもしれません。

母が結婚したのは遅くて、私を産んだのが40歳でしたから、母にとっての再婚はとても計画的な事だったようです。

そこで、甘えていられない事に気がついた私は、急いで仕事探しをしました。結構一流の会社に研修後に派遣で配属されることになって、職種はオペレーターでした。

それから、一人前のOL生活を送るようになった私なんですが、就職後、半年も経たないうちに社内で彼氏ができてしまったんです。三つ年上の人で旧家の跡取り息子でしたが、その時には環境の違い等全く考えもせずに、結婚に踏み切ってしまいました。

盛大に会社の方を多くお招きしての結婚式でした。そしてとりあえずということで、会社との便も良いので、母のマンションにそのまま住むことにしたんです。

どうも、競争相手が結構いたらしいのですが、私にとってはそんなことちっともお構いなしで、その時は全く知りませんでした。

どうゆうわけか、小さな頃から苦労せずに何事もスイスイと上手くいってしまうことが多かったせいか、私は歯を食いしばって努力ということを知らずに育ってしまっていたようです。まさに、家事などしない娘であって、母親も仕事を終えて帰って来ると、手早く食事の支度をする方が早いので、あえて料理すら教えようともしませんでした。

そんなわけで、私は結婚当初なにも出来なかったんですが、料理本と睨めっこしながら、家事いっさいを工夫してマイペースでなんとかこなすことが出来ました。

これは、私の長所ではあるけれども、なんでも自分の力で乗り越える精神は、下手をすると誰にも頼らない事にも繋がって来るようで、人の繋がりや、皆の力とかをまるで考えないそんな私でした。

そんなわけで、彼も最初はスーパーの買い物に休みの日は付き合ってくれていたのですが、その内に私が何でも上手にこなせる様になったのでひと安心したようでした。

けれども、その頃から、彼の帰りが遅くなるようになってしまい、会社の上司のお供で麻雀のお付き合いが始まったんです。

次第に、金曜の夜は泊まりで、土曜日のお昼頃に帰るのが当たり前のようになっていました。どうも、上司の方が、新婚当時は遠慮していただけだったようで、彼が入社してから、麻雀生活は当たり前だったようです。彼と知り合って一年もたたずに結婚をした為か、私生活の細かい部分を知らずにいた私でした。昼帰りの土曜日はだらだらとして家で過ごすので、一緒に出かけたり出来るのは日曜日しかなかったんですが、日曜の朝となると彼はすごく早起きをして、さっさと競馬へ出かけてしまうんです。

私も誘われて何度か行ったんですが、元々賭けごとに興味がないので、直ぐにつまらなくなって行かなくなってしまいました。

結婚してから、映画に行くとか、音楽を聞きに行くとかそんなことはずっとしたことがありませんでした。

けれども、私は小さな頃から母親がよく映画に連れて行ってくれたのが嬉しかったので、私も子供たちが小さな頃から良く連れて行ったものでしたが、夫が一緒に行くことは一度もありませんでした。

そんな生活だったのですが、せめて私の出来ない事は父親としてやってもらおうと思い、一生懸命に頼んだことがあって、それだけはやっとやってくれました。それは釣り堀での魚釣りで、それも、日曜日の夕方に涼しくなる頃に行くものですから、よく子供たちが風邪をひきそうになったものでした。そういえば、旅行も新婚旅行のみで、どこへも行っていません。

私達の家庭は、結婚してから二年後に女の子が産まれ、三年経ってから男の子が授かったので、私は子育てに夢中になって、彼が家庭を振り返らない事など何とも思わずにいたようです。大変だけれど、子育てが楽しくてあまり気にも成らなかったという方が当たっています。

彼の母親は二人目が生まれた時に、泊まりで手伝いに来てくれたんですが、実母は一回顔を見せただけで、自分の夫の世話があるからと言い訳をして、さっさと帰ってしまいました。老後水入らずの二人の生活を楽しんでいて、旅行三昧のようでした。何か相談したくても、子供を連れて泊りに行きたくとも、相手の方が厳格なタイプで、子供が窮屈がるし、又行っても楽しくはなかったので、当然母親とも疎遠になってしまいました。しかし、それなりに月日がたち、外からみれば平和な家庭が、ある日、下の娘が事故で足を骨折してしまってからは、ささやかな平和は急速に音を立てて壊れて行きました。

事故は、停車している車の陰から友達と娘が道路に飛び出して、調度右方から走って来た車に後から走っていた娘だけが跳ねられてしまったんです。車の運転者は逃げずにいて、誰の通告かわかりませんが救急車と警察が直ぐにきて、私はその友達に呼ばれて現場に行きました。すぐに、救急車に同乗して病院へ行き、手当をして病室に移された時には、娘の片足はギブスで重たく包囲されて、上からつりあげられたんです。そして、娘が寝着いてから、私はお医者様に呼ばれて、骨折の場所が後一ミリで障害児になる所だったということを聞いた時には、全身がブルブルと振るえていました。

不思議なことは、路上に違法駐車していた車は逃げてしまったようなのに、警察は探しもしなかったんです。それどころか、小学一年生の子に親が傍にいなくて遊んでいたと叱られたんですから、警察ってなんだか変だなって今でも思います。とにかく、娘が治ってくれることだけを必死に祈っていた毎日であり、誰を怨む気持ちもありませんでした。

子供だから、弾力性のある皮膚だからでしょうか、娘には外傷もなく骨折のみで完治しましたからとても幸運だったのかもしれません。けれど、それ以後はとても足の速い子だったんですが、余り走らなくなりました。

その後の私は、警察には屈せずに、マーケットへ行くのに住民が渡る場所に歩道もなく事故が多い場所だからと抗議して、歩道を設置してもらう等、犠牲者の家族としての運動を率先してやり、前向きに生きてきました。

でも、夫が仕事以外に何事かコソコソとやっていることには全く気が付かなかったのです。その頃夫がしていたことは、子供の怪我の最大の保障を勝ち取ろうとして、会社の弁護士を動かしていたということがわかりました。そして、子供の怪我が完治した頃とほぼ同時期に彼から私は五万円を受け取り、保障金の一部だから何かの足しにするようにと言われたんです。その時はただ有難く受け取り、子供名義で貯金をしました。

後日、彼がその十倍の保証額を弁護士のお陰で手にしていたことがわかった時は、とてもショックで気持ちが沈みこんでしまいました。それも、彼の会社の弁護士に私は呼ばれて、その弁護士から聞いた話だったのです。

もしも、子供の怪我が後一ミリ違いで障害児となっていたならば、無事であった事が何よりですが、何故全額手渡してくれなかったのでしょうか、もしも後遺症なり何か将来起こったとしたらどうなのでしょうか、いずれにせよ、そのお金は子供自身の為に貯金しておくべきお金ではいのだろうかと、思い悩みました。そして、このことは夫への不信感へとつながって行ったのです。また、私が会社の顧問弁護士に呼ばれたわけは、彼が会社に借金をしていて、もう子供も小学生になったのだし、怪我も治ったよう様なので、奥さんも働いて返済を手伝って下さいと言うことだったんです。

その話を聞いて私は茫然となってしまい、賭けごとで借金を作り会社に借りていたのなら、何故本人の口からそのことが聴けなかったのでしょうか、私達は夫婦じゃないですか、子供も二人いるじゃないですか、何故他人からこんな話を聞かなくてはならないのでしょうか、と悔し涙が溢れ出て、帰りの電車の中で思わず涙ぐんでしまいました。

この話を本人から聞いていたなら、私の気性ではきっと「一億あったって、一緒に早く返しましょう」と直ぐに仕事を探して、子供は学童保育に入れてと手続きをどんどんとやっていたと思います。

その保障のお金は借金の返済へと当てられたそうで、その弁護士さんも知っていた筈ですから、なんて非情な方だとも思いました。

今になってみれば、かっこつかなくてかっこ悪くて言えなかった夫の気持ちもわからないでもないのですが、その時はただ哀しくて空しくて、彼への信頼が音を立てて崩れ落ちて行き、胸が締め付けられる思いでした。

その場では、顧問弁護士に「直ぐ仕事を探します」と返事をしましたが、帰ってからも少しもそんな気持ちになれずに、毎日が空しく過ぎ去って行きました。

そしてある日、マンションの五階のベランダの手すりに布団を干す時に、つい下をみたら地面の芝生がボーっと持ち上がって来るような、幻覚をみるようになってしまって、そんな自分が恐ろしくなってきました。

それから、フラフラと毎日遊び歩くようになってしまったんです。そして、夕飯の支度をしてから夕方前に家を出て、電車に乗り、あちらこちらでウインドショッピングや、本屋の立ち読みなんかして、最後にジャズ喫茶で好きなジャズを心ゆくまで聴いてからやっと暗くなると帰る毎日が続きました。

子供たちのことは、買い物や料理をする時には、少しずつ教えたりしながら、協力して一緒にやってきましたから、今では上の子は簡単な料理はちゃんと作れるし、買い物もその辺の主婦顔まけで、しっかりと品定めをして買える程なので、2~3日私がいなくともきちんとやれると思っているんです。お金もわかる所に五千円位は常に置いてあるので、ほんとに非常時といえども安心しているんです。けれども、まだ子供なんだし、今のような事をしていてはいけないと分かっているんですけれど、ノイローゼと自覚する位にじっと家にいられない思いで一杯でしたから、今日もテーブルの上にメモを置いてきました。

そして、行きつけのジャズ喫茶でいつものようにコーヒーを飲んでジャズを聴いていたら、その店の常連の顔見知りの客が傍に寄って来て、誘われるがまま、ついお酒を飲んでしまったんです。私はワインが好きなんですけれど、たまに飲む位だったので、そんなに強くないんですよ。気分良く飲んでいる内は良かったんですが、ついつい楽しくて深酒をしてしまったんですね。身体中が熱いと感じた時はその男とのセックスの真最中で男は終わっていました。驚いて私は飛び起き、シャワー室に駆け込み、体中溢れる涙も全て洗い流しました。「良かったよ、又逢いたいな」という男を尻目に私はホテルを飛び出していました。

なんてことをしてしまったのだろうか、何て馬鹿なことをと心の中で何度も叫びながら、自分がどこにいるのかも分からずに歩きまわりました。

やっと、あるビルの地下にジャズ喫茶をみつけて駆け込んできたんです。

そしてここまで、ハッキリと自分のしたことを認識できた時に、私はもう次の行動に移すことを模索し始めていました。

相手を信頼出来なくなっているのに、一緒に住んでなんかいられない、だから、私は家にいられなくて、もうあの人と顔を合わせるのも嫌だからこうやって外をウロウロして、そして、こんな馬鹿な事をしてしまったんです。このままでいたら、どんどん泥沼にはまってしまい落ちて行くだけ、今ならまだ気力があるけど、そのままズルズルしていたら、私の精神はきっと死んでしまうと思いました。私は自分の心と対話をして、もう既に取り返しがつかないと思ったんです。そして離婚の準備を始めようとしている自分に気が付きました。

こんな時こそ相談できる人がいたらいいのに、母親には相談してもきっとわかってもらえないと勝手に思い込んでしまいました。

友達は多くいるんですが、常に相談に乗る役なんです。自分の事を相談することは殆どなくて、小さな頃から全部自分で考えて、自分の責任で行動して来たものですから、今度だって何とか乗り越えていけると、フラフラしているから間違いが起こるのだから、しっかりと決着をつけて子供と自分の為に働いて生きていこうと考えました。

終電ギリギリでやっと家に帰り、子供たちが寝ていることを確認して、もう一度シャワーを浴び、良く洗いお風呂に浸かりました。

悲しむよりも、後悔するよりも、これからの新しい人生の決着が着いたことへの新たな気持ちを大事にすることを優先させることにしました。明日からの自分は行動のみであると新たに自分に誓いました。もう涙もこぼれません、強く生きていこうと思いました。

翌朝は午前様で寝たにも係らず早く起きて、子供たちに昨夜の申し訳なさをプラスして美味しい朝食を作りました。

子供たちは何を理解しているのか平然としていて、いつもと変わらず良く食べ学校へ出かけて行きました。今日は土曜日だから、子供たちは早く帰って来るし、彼は昼帰り。どうせ、話なんか出来ないのだから、先に行動あるのみなんです。家の片づけを終わってから、私は計画をきちんと立てて実行する為に、まず、ノートを買いに行き、その売り場を見ていたら履歴書があったので迷わず買いました。

そして、翌日の日曜日、出かけようとする夫に「話があるの」と声をかけたんです。

「私は、貴方を信頼することが出来なくなってノイローゼ気味になってしまいました。今後、精神に異常をきたして精神病院に入ってしまったら、子供たちが気の毒だから、貴方とは別れて出直します」ときっぱりと彼に宣告をしたんです。ところが、彼は驚いた素振りはしたんですが、「やれるものならやってみなさい」と、行って出かけてしまったんです。

でも宣言してからの私の行動は、実にテキパキとしたものだったと思います。

ノイローゼぎみで、ウロウロしていた私とは全く別人でした。

まずは、仕事を探す事ですが、新聞をみていたら、仕事募集の公告があって、証券会社の営業を数名募集していたんです。その方面には全く関心も無く分からない世界なのですが、未経験者でもよく研修ありとあるので、応募してみることにしました。早速面接日が決まり、履歴書を持ってかなり早めに行きました。もちろん、スーツを着て、スーツなんて式以外には着る機会も無かったんですが、さすが着ると気持ちが引き締まってなんだか心持ちも変わるものですね。

面接では、緊張していましたけれどしっかりと答えることも質問することも出来て、「それでは採用させていただきますので研修に入って下さい」と最後に言われて、嬉しくて飛び上がる思いでした。

いざ研修が始まって、まるで学生時代のような気分で毎日が楽しかったのを覚えています。そして、研修が終わり、来月の入社までには、少し間がありましたので、区役所に離婚届け用紙を取りに行きました。そして、帰りには福祉課にも寄って、手当のことなど説明を受けたんです。

相変わらず、子供達が寝る頃に帰宅する夫でしたので、その日の夕食をテーブルに置き、手紙と自分の所を記入した離婚届け用紙とを置いて先に寝ることにしました。

翌朝、流しに洗い物がボールに浸かっていて、テーブルの上は綺麗に片付いていました。そして、いつもの変わらぬ朝が始まり、彼は何も話すことも無く出かけていきました。

手紙には、来月から仕事に出ることを伝え、離婚届けにサインをして欲しいことと、さらに家を出て欲しいと書き添えました。ここは、私の母のマンションなんですから、おかげで母に感謝することが出来ました。

それからも、毎日が何事も無かったかのように、お互い話す事もなく流れていきました。

仕事の方は、なかなかやり甲斐があって、毎日力一杯やっているんだという生きがいを感じてきて、とても張り合いがありました。

そして何よりも、いろいろな人とお話ができることで、不安がなくなってきたんです。結婚して、子育てをして、夫との会話もなく、話す相手はほとんどいなかった私なので、それだけでも新境地でした。

手紙を受取ってから、彼は半年後に新築マンションに引っ越して行きましたが、まだ離婚届けは出していないようですし、生活費の話も何もなしで、私の方からも何も切り出すことなく、一年が過ぎて行きました。

子供は父親に呼ばれて遊びにいったようでしたが、夫婦が別れても、子供にとって親は親なんですから、それを拒否するつもりは全くありませんでした。もしかしたら、どちらかの子供が父親と暮らしたいと言ったらそれも拒否しなかったかもしれません。

幸いというか、二人とも当然のように私と居ましたから、それで良かったんだと思います。私の方から生活費について彼に交渉しなかったのは、10年の結婚生活において、夫のお給料を全額手渡してはもらえない生活だったんですが、それを私の方も当たり前だと思っていたんです。一般的な夫婦生活というものを知らないまま過ごしてきましたから、彼が働いたお金だからそこから家計費を渡してくれるのを当たり前のように思い、家計費として渡された中から何とかやりくりをして貯金もありましたから、家賃の支払いがないお陰で何とか自分だけの収入でやっていけたからだと思います。

けれども、仕事に慣れて来るに従って、日曜や祝日にもお客さんの都合で出勤しなくてはならなくなってきたものですから、子供との触れ合いを考えるとだんだんとこのままこの仕事を続けて行くことに疑問が湧いてきてしまったんです。子供は学童保育に入ってましたから、平日は心配なく帰って友達もいて良い環境だと思っていたんですが、休みは子供たちとの唯一の触れ合い日ですから、とても貴重なんですね。

きっとここをやり抜く人が上にあがって行くのでしょうけれども、私には今の子供の事が大事でしたから、悩んだ末に日曜祭日に休みの取れる仕事を探さなくてはならないと思ったんです。

そこで、祭日の出勤の代休で平日にお休みが取れた時に思い切って職業安定所に行き、仕事を探すことにしたんです。

そして、面談になった時に、今の状況を詳しくその方に伝えました。そしたら、なんと「簿記の資格を撮ってみませんか?失業保険が出て、無料で半年間受講できます。資格を取ってから仕事に着いたらいかがですか?」と、そして、今日がその受講申込の最終日だと言われるんですよね、それも、ほほ笑みながらです。

なんて幸運なのかと嬉しくなって、さっそくお願いしました。高校は進学校で普通過程でしたから、簿記という言葉すら知らない私がその世界に入って行くなんて、果して出来るのだろうかと多少は思いましたが、勧められるままに申込みをしました。その帰りに役所に寄って福祉課に足を運び児童扶養手当の申請をしたんです。別居でも時間が経てば出来るそうなので、申請しました。

翌日、早めに出社をして上司に全てを隠さずに話したら、了解を得ることが出来たんです。「君は仕事が出来るし惜しいけれど、お子さんの為にはその方がいいでしょう」と気持ちよく送り出してくれました。自分のお客様の後を引き継いでもらう為に数日出社して、最後の日に乾杯で皆が送り出してくれました。

離婚は自分で決断したけれども、そこから少しずつ周囲の人との交わりとか独りではやることに限界があるけれども、皆でやればいろいろなことが出来ること等、この会社に入っていろいろと学ばせて頂きました。

自分が変われば周囲も変わることもわかりました。感謝の気持ちが一杯で又涙ぐんでしまい、どんな映画を見ても必ず泣いてしまう私なので、子供たちにいつも笑われているんですけれども、嬉しくて有難い涙でした。

翌月から講習が始まり、また今度は六カ月も学生でいられるのですから、嬉しくてはしゃいでしまいましたし、良い友人もたくさん出来ました。そして、半年が過ぎて、家から30分位で通える会計事務所に就職が決まりました。その時の免許は日商簿記三級でしたが、入社して一年後には二級を取得することが出来て、それからは結構重要な仕事を任せて頂いています。

そうですね、別居から三年たってから彼から連絡が入り、それも会社の近くへ呼び出されたんです。

「三年待った。どうですか?」って、何がどうなのかとその時の私は、生き生きとして張りきっていましたから、分りませんでしたが、「そろそろくたびれたのではないか」とか「意地を張っていないで降参したまえ」ということだったのではないでしょうか。

別れ際に、「君とは赤い糸で繋がっていると思っていた、離婚届けは出しておくから」と言われました。なんて、同じ世代でありながら、環境の違いというのは大変なことなのですね。彼は地方の旧家の跡取り息子で形が大切な人なんですね、でも、私は公務員の母との二人暮らしで、とても合理的で自由な環境だったので全く考え方や受け止め方が違っていたんです。

けれども、やはり愛し合って結婚をし、子供もいたんですから、話し合いや我慢で家庭は維持するべきだったかもしれません。でも私には、信頼関係が崩れ去った人間同士が同じ屋根の下で住むことは出来ませんでした。きっと親子だったら、多少のヒビが入っても違ってくるのでしょうけれど、育った環境の異なる他人同士が長いこと一つ屋根の下に暮らすには、お互いの信頼関係がやはり一番大切だと思います。女である前に私は独りの人間なんですから。もしかしたら、私は精神的に敏感で弱いのかもしれませんが、異常になってしまってからでは遅いので、後悔はしていません。

それからの私は、彼とは直接腹を割って話せないのですから、家庭裁判所の門をくぐりました。家裁の方は良くお話を聴いて下さってとても良心的だったと思います。養育費に彼のお給料や今の借金などの状況を考えて割り出した額の約二倍は請求して下さいと言われました。

それで請求額がやっと出る位だそうで、また、大体が途中で仕送りを辞めてしまうのだそうです。音信不通になるなどもあり得るわけですね。彼は家裁の呼び出しにもきちんと対応したようですし、社会的な面子はとても大事な人ですから、やはり、きちんと堂々と必要な機関を利用して正解でした。

逆にかなり怨まれてはいるようですが、子供たちとの取り決めもきちんとしました。お誕生日のお祝いなどもある年齢までだったのですが、きちんとしてくれました。

子供たちからの情報がその後全てでして、三年後には、会社の人と再婚したようでしたが、子供は相手の方が望んだにも係らす、つくらなかったようです。

その人とは、私との交際前からの人だったようで、大分お金を融通してもらっていたようなんです。私の方で気がつかなかっただけで、裏切られていたわけです。そして、養育費も上の子が成人するまで支払われました。取り決めでは、子供が成人するまでとありましたが、その方の援助があってのことでしょうから、長いこと払ってくれたので彼を怨む気持ちも何もありませんでした。

やはり、結婚は周囲との関係を大切にしてお互いの親同士のお付き合いも大切にしなければいけないものなのですね。もしそんな環境であったなら少し自由がないかもしれませんけれども、ノイローゼ状態の私を救える考えや、彼に私の状況をわからせてくれる人がいたかもしれませんものね。

今の私は二人の娘が巣だって、一人でそのまま母のマンションに住んでいます。母は連れ合いを先に送り出して、現在は介護付きマンションに住んでいて高齢ですが健在です。そして、独りになった私は、税理士試験に挑戦しています。仕事を終えて、夕食をきちんと作って、一段落したらさっそく勉強に取りかかる毎日でして、とっても努力をしています。五科目受験で何年かけてでも取れるので、絶対に取得する覚悟です。辛い思いで勉強しているのでなくて、仕事をする上でも役に立ちますし、楽しく意欲的に勉強しているんです。それと、趣味の会へ顔を出して、男性のお友達も出来てきましたので、もしかしたら再婚の道も出てくるかもしれません。孫も二人いますし、まだ増えますものね。母のところには良く顔出ししていますよ。今の私は精神的にすごく成長したと思っています。

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