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離婚にまつわるコラム

選択が将来正しかったと思えるように生きたい

結論からいえば、わたしは主人と調停離婚をしました。子どもがいるので、月々の養育費は5万円。そして和解金は250万円で落ち着きました。金額としては大きいかもしれませんが、満足はしておりません。生活費の八割はわたしが負担をしており、主人は月々家賃程度しか家にお金を入れなかったからです。そのうえ、浮気や家庭内暴力などもあり、トラブルがあった何年間かは「子どものために片親にしてはいけない」「もう少しがんばれば彼も変わってくれるかも」と我慢の連続だったからです。

 

わたしたちは夫婦になる前から同棲をしており、つきあいはかなりの長さになります。知り合ったのは、今から15年ほど前でした。当時、わたしたちは大学の音楽サークルに所属しており、好きなミュージシャンやバンドが共通であったことから、つきあいがスタートしました。主人は素直で子どものような性格で、どちらかといえば、わたしのほうがイニシアチブを取っている感じだったと思います。互いの部屋を行き来していたのですが不経済であることから、同棲生活をスタートさせました。アルバイトをしながら音楽活動をする生活は責任がなく、非常に楽しいものでした。しかし音楽のプロフェッショナルへの道は狭き門であり、デビューの話などもありましたが、すべて立ち消えで結果は出ませんでした。

 

主人はそのような状況に違和感がなかったようですが、わたしは将来のことも考え就職を考えていました。幸運なことに、ある広告代理店に入ることができて生活が安定しました。

 

わたしの両親は長男長女であり、両親の弟や妹たちの子ども(わたしにとってのいとこたち)は結婚し子どもをなすものもおりました。したがって両親は「早く孫の顔が見たい」「きちんと結婚をしてほしい」と望んでおり、ふたりを早く安心させていと感じていました。

 

代理店ではチーフディレクターとなり、当時としてはよい給料をもらうことができていました。

 

「そろそろ結婚してもいいのでは?」わたしから切り出し、彼も快く承諾してくれました。もともと優柔不断な部分を持っているひとなので、いま思えば、「流れに任せる」という判断だったのかもしれません。

 

わたしの親戚は関西に住んでおり、主人の親戚は東北から東京に点在しています。両家の親類を呼ぶことは経済的にも不可能でしたので、双方の両親と、わたしと主人の兄弟、参加してもいいと思ってくれる友人らでハワイ挙式を行うことにしました。

 

結婚1年目で、わたしは妊娠し長女が生まれました。妊娠とともに退職し、わたしは自宅で広告の仕事をしながら子育てをしました。主人は彼の両親の強い勧めもあり、一度は就職しましたが、長続きはしませんでした。

 

「音楽の夢が捨てきれない」と言い、また音楽活動をスタートさせました。思えば子どもが保育園に入った頃がいちばん幸せでした。わたしのフリーの仕事は順調だったし、主人も保育園の行事には積極的に参加しアルバイトにも真面目に通っていました。経済は「あるほうが支払えばいい」と思っていたので、家賃だけの負担をお願いして、保育料、食費、光熱費、そして主人の通信費なども、わたしが負担していました。

 

子どもの成長が願いだったので、毎日、発見や喜びがあったことも、ますます、わたしを鈍感にさせていたような気がします。不審なことがあるとすれば、食事中に携帯メールの返信をするなどの行動があったことです。深夜帰宅やメールについては、そもそも音楽の仕事は不規則であり、「いつものことだろう」と感じていたので、特に問いつめることはしませんでした。慣れない子育てに懸命だったということもあり、気にしている余裕がなかったのかもしれません。けれど、子どもが4歳~5歳年長さんになる時に裏切りが発覚したのです。

 

ある日、主人はひどく酔って帰宅し用意していた夕食にも手をつけずに倒れるようにリビングで眠ってしまいました。時間は夜中1時を回っていたでしょうか。

 

出かける前には「楽器を倉庫に預ける算段をしてくる」と、それほど遅くなるとは聞いてはいませんでした。「またどこかで友人と出会い、飲んでいたのだろう」と心配はしていなかったのです。

 

それから30分ほどして主人の携帯が鳴りました。知らせようと携帯を手に取ったとき、フラップタイプの携帯の小さなディスプレイにも文字が流れました。…もう帰った? わたしは飲んでいるけど……U子…

 

携帯メールが持ち主に知らせるおしゃれな機能、ちいさな文字が、わたしを狂わせることになったのです。

 

最初の一文と差出人の名前、U子とは誰なのか? どこにいたのか? 今まで主人の音楽関係者にも無頓着だったわたしでしたが心臓がばくばくして、胸騒ぎを覚えました。これまで携帯電話などチェックしたことはありません。けれど酔って高いびきしている主人を見たら、怒りがこみ上げてきました。携帯を開け、すべてを見てしまったのです。U子という女性はヴォーカルをしているひとで、1年以上前からつきあいがあるようでした。

 

翌朝、問いつめるも「音楽の仲間だ」というばかりで話になりません。そのうえ、その後も主人はU子さんとメールのやりとりを続けていました。

 

「どちらが好きなのか? どちらを選ぶのか?」と聞いても優柔不断であり子どもの主人にはピンとこないようです。

 

ケンカの日々でした。このままでは子どものためにもよくないと思い、わたしはU子さんに連絡を取りました。彼女は素直にあやまるどころか開き直り、「わたしには関係ない」と言い張る始末でした。あとで聞いた話ですが、U子さんはバツイチで子どもがあり、親権は父親が持っているとのこと。つまりは音楽で仕事にならない同志が相談し合ううちに親しくなったようでした。矛盾しているかもしれませんが、もう少し真剣に彼を好きだと言ってくれたら気持ちが収まったかもしれない。けれど相手は遊びのスタンスです。苦しかったけれど耐えるしかありませんでした。そのうち、U子さんのウソに気づくだろうと。案の定、3ヵ月くらいたって彼女からの連絡が途絶えました。わたしの主人である彼に飽きたのと、新しい彼ができたようです。

 

そんな折、主人の父親が亡くなりました。わたしたち家族を気づかってくれ、いつも心配してくれた義父でした。主人は義父の遺産1000万円を手に入れたのです。

 

「これは子どもの学費に取っておくから」と主人は言いました。その言葉にウソはなかったような気がしました。「このひとは、やはり父親なのだ」と、今まで通り経済面はわたしがみて、いざというときに義父の遺産で賄おうと思いました。

 

主人からは「やり直そう。家族3人で」と素直な謝罪もありました。この話を後で友人らにすると、「本当にバカでしょう」と言われますが、わたしは家族の絆を深めるため、再スタートを切る記念として家族旅行を計画しました。もちろん、旅費はわたし持ちです。

 

娘にも心配をかけたし、日本国内のしがらみを断ち切るという意味でタイに出かけたのです。タイでは非常に楽しい時間を過ごしました。何より変なメールが届く心配はありません。そして帰国前夜のディナーではやさしい言葉をかけてくれた主人に涙したほどです。

 

「いろいろあったけど、ここまで来られて本当によかった」

 

涙の止まらないわたしに「泣くなよ」と、いつまでもいつまでも肩を抱いてくれたのです。もう心配はないのだな。何があっても一緒なのだと感じました。けれど、その考えは甘かったのです。大金を手にした主人は水面下で、やはり女性問題を起こすことになります。

 

今度は共演したスペイン人のダンサーSさんでした。彼女は6ヵ月ほど日本に滞在して、ワークショップなどを行い、舞台でショーをしていたのです。わたしも娘も舞台を見に行ったので面識はありました。

 

今度の相手はお国柄情熱的であり、非常にしつこいひとでした。一日、何度も電話をワン切りするなど、アプローチが露骨でした。主人はここでも、やはり優柔不断なひとで、迫られると嫌と言えないのです。二度あることは三度あるというけれど本当でした。

 

当時の主人のアルバイトは早朝から午後まで、午後からは音楽活動のために確保しておりました。わたしは起きられないので、スープやおにぎりを用意しておりました。

 

ある日、また決定的なことが起こりました。

 

バイトに行った日、所用で携帯にメールをするも返信がありません。電話をすると呼び出しても通じず、そのうち電源が入っていない状態になったのです。アルバイトを紹介してくれたのが、主人の同級生Yさんでした。同級生も同じ職場だったのでYさんの携帯に電話をしてみました。あまり心配をかけてもいけないと思ったので

 

「(主人と)全然、電話が通じないので、どこにいるかと思って」と切り出すと、「今日は休みだよ」という答えです。わたしは携帯にメールを打ちました。

 

「大変なことが起こりました。至急、電話をください」

気の弱い主人のこと、見たら電話をくれると思いました。案の定、何度かメールを打つと、主人から電話がありました。

「どうしたの?」

「いま、どこにいるの?」

「え?」

「Yさんから聞いたけど、今日、バイト休みだって…」

 

一瞬、主人が息をのんだ気がしました。沈黙を破ったのはわたしのほうです。

 

「どこにいるの? 誰といるの? まさかホテルじゃないでしょうね!」

 

問いつめるとダンサーSさんと一緒だと白状しました。

 

「何してるの?」

「変なことはしてないよ。帰るのにスーツケースが欲しいからつきあってと言われたから」

「それで?」

「新宿でラーメン食べて公園で話しているだけだよ」

「わたし、いまから、そっちに行くから」

「それじゃ全部台無しになるよ。すぐ帰るから…」

 

そのときは電話をしたあと、すぐ家に帰ってきました。子どもじみたいいわけでしたが、「つきあえない」と断っているから、わたしが、その場に出て行くと困るということでした。もう何を信じていいのか分からなくなっていました。感覚が麻痺したいたのでしょう。正常な判断はできませんでした。いま思えば、すべてウソだったのだと言えますが。

 

これは事実ですが1週間くらいして彼女はスペインに帰りました。

 

けれどその後も国際電話のワン切りは止まりません。PCにもスペイン語で「愛している」「距離は問題ありません」などとメールが入っておりました。

 

どうしていいのか困ったわたしは義母に相談し、しばらく実家に戻ってくれるようお願いしました。主人の実家は裕福で、義父が亡くなったあと、5LDK以上の広さの持ち家に住んでおり、主人を受け入れるのには十分に思えました。

 

いい年をした男が定職にもつかず、音楽に没頭していることを許せない義母は、それまでは「支えてくれてありがとう」と、わたしの味方であったように思いました。けれど、それは幻想でした。わたしは自分で言うのも変ですが、義母とは上手くやっていたと思います。本当の母親のように敬い、常に義母第一に考えてきたつもりです。

 

「お義母さん。冷却期間を置きたいので実家に戻ってもらってもいいですか?」

「わたし嫌だわ。ひとりがいいし。あなたも妻として、もっとプライドを持ちなさい」

 

義母はきちんと義父から養ってもらい。亡くなったあとは、悠々自適な生活を送っていました。生活費の八割を負担しているわたしにはプライドの持ちようはありません。でも、まだ主人は変わるかもしれないと信じていたのです。まだ愛していました。

 

前とまったく一緒でした。スペインでSは彼ができたようで、音信は途絶えました。

 

安心したのもつかの間、その後、義父の遺産の1000万円が300万円になっていたことが判明しました。わたしの広告の仕事が目減りして、税金が払えなくなったからです。

 

そのとき、(主人の税金も含めて)相当な額の税金が課せられていたため、「もうわたしには払えないので、申し訳ないけれど、遺産から支払って欲しい」とお願いしたのです。

 

すると遺産を預けていた信託銀行カードによる貸し付けで700万円を使ってしまったので「母親に管理されてしまっていて動かせない」とのこと。実はこれもウソだったことがあとになって分かるのですが、そのときは仕方がないと、分納の手続きを取りました。

 

そして1年後には200万円になっていたのです。生活費の八割を、わたしが負担しており、アルバイトもしていたはずなのに、どうしてだろうと不思議に思いましたが、楽器購入、飲食で瞬く間に消えてしまったようです。

 

またケンカの日々が始まりました。

 

「どうしてそうなの?」と「どうしょうもない」という問答の繰り返しです。わたしも感情的になりすぎる場面があり、ついつい言い過ぎてしまうことがありました。お互い疲れ切っていたと思います。

 

深夜帰った主人と口論になり、「ふざけるな!」と手を挙げられました。それまで、暴力行為は一度もなかったのです。ましてや、男性に殴られた経験も一度もありませんでした。

 

すごいショックと痛みで涙も出ませんでした。主人は逃げるように家を出ていきました。その日はマンガ喫茶に宿泊したようで、翌日、娘にメールが届きました。

 

…お母さんと一緒に暮らせなくなりました。いまはおばあちゃんのところにいます。◎◎ちゃん(娘の名前)はどちらと暮らしますか?

 

甘えた内容だと感じました。そして大事なことを娘にメールで話してくる神経が許せなかった。けじめのないひとだと思い怒りがこみ上げます。養育費や親権についても何も考えてないひとなのだ。怖くなると逃げる、いつまでもズルズルと優柔不断なウソをつきつづける、誠意はないのだろう。わたしは離婚を決意しました。

 

それから離婚にこぎつけるまでに1年半の時間を要しました。なぜかというと、その優柔不断さと主人にはお金がなかったからです。家を出てから4ヵ月後、主人はいきなり離婚届だけを持ってやってきました。子どもがいること、今後、娘にお金がかかることなど、どこ吹く風でした。

 

主人にとっては同棲の延長線上であり、流れに任せてということなのでしょうけれど、夫婦だけの問題ではありません。

 

わたしは申立て書を用意することにしました。この何年かの娯楽費(通信費、主人のバイク駐輪場代、わたしが購入したコンピュータ代)などを返済してもらおうと考えたのです。塵も積もれば山となるではないですが、すべて換算すると270万円ほどになりました。

 

明細は請求書としてエクセルにて作成して、領収書があるものは用意して内容を明確にしました。

 

幸い、友人には離婚経験者もおり、立会人を申し出てくれたのです。彼には経済力がないため、双方が個人的にやりとりする場合は、養育費の取り決めに「保証人を立てたほうがいい」とのアドバイスをもらいました。

 

主人の保証人は義兄しかありません。義母は高齢でもあり、基本的に「面倒なことには関わらない」というスタンスを取っていました。まずは協議離婚をしようと思いました。主人のいる実家に送りました。

 

一部変更をしておりますが、申入れ書の内容を公開します。

 

 

申入れ書

 

(主人の名前)殿

 

 昨年末別居を申し入れました後、本年2月に養育費や慰謝料の話もなく、あなたは離婚届を持って来られました。

 

あなたの母である◎◎(義母の名前)氏に相談したところ、娘に関しての話もなく、「任せている」との返答に、誠意も感じられませんでした。

 

これ以上、お話をしても建設的な解決策が見つかるとは思えませんし、この問題が長期化することが、多感な年ごろの娘に良い影響を与えるとは考えておりません。

 

ゆえに、以下条件で離婚に向けての準備を進めたいと思っております。

 

一、離婚に関する協議を申入れますが、当方は父(父の名前)、及び(友人代理人の名前)氏を代理人といたします。

 

一、離婚による私、娘の精神的損害について慰謝料五百萬円を請求します。

 

(以下経緯)

 

私達の離婚のそもそもの原因は、あなたが家庭を顧みることなく、生活費を十分に家庭に入れなかったこと、数々の嘘をついていたものです。亡き◎◎(義父の名前)氏の遺産壱千萬円も、妃夏子の学費であると嘘をつき、音楽と称し飲み会等に出向き出費を重ねていました。通信費や携帯機器ですら自己負担していないのに。また、嘘をついてバイトを休み、女性と会うなど、家族を欺き続けたことは許せません。

 

慰謝料は、こうした精神的な苦痛や長年に渡る生活不安に加え、私への暴力行為に起因するものです。

  1. 自宅マンションの鍵の迅速な返却。

 

 一、養育費等、離婚後の娘に係る費用等分担及び(わたしの名前)、(娘の名前)名義の保険等については別途協議書にて定めます。

 

 以上が、離婚条件です。

 

 ご承知のとおり、娘も進級することになり、不安定な状況を早く改善したうえで、経済的な心配もすることなく、進学をさせたいと考えております。

 

 親としてあなたも同じ気持であることを心から願っております。

 

 本条件をもって、離婚協議に応じられたくよろしくお願い申しあげます。

 

平成23年◎月◎日

 

(わたしの住所と名前)

 

上記の内容で申入れ書を送ったところ、回答はなく、それまで放置していたマンションの荷物をあわてて引き上げて、カギを置いていきました。そして保険関係書類は、娘名義のものだけを持ってきました。

 

ここで不思議に思われたかと思いますが、270万円だった金額がなぜ跳ね上がったかです。それは友人のアドバイスもあり、金額は下がっていくものだと聞いたからです。経験者によれば「100万払えと言われて100万払うひとはいない」とのこと。実際に換算した金額には保育園や小学校の費用は含まれていません。

 

また家族旅行など目に見えるものは含まれません。こちらも換算すると、わたしは500万円以上の金額を出したことになります。書面で不安になったのでしょう。自宅マンションにカギと保険書類を置いていったあと、主人からメールが入りました。

 

…200万なら用意ができるけれど、それ以上は難しい…

 

あてにしているわけではありませんが、200万は残っているはずです。なぜかといえば、カードで借り入れられるギリギリの額だからです。

 

申立書は個人的にやりとりするものとして作成しました。これは、あまりにことを荒立てたくはないという、わたしの甘さでもあったのです。

 

それを離婚経緯者の友人が指摘してくれました。そして「法的な拘束力のない公正証書をつくっても意味がない。きちんと家庭裁判所に持ち込むべきである」とのアドバイスを受けました。

 

わたしは主人にメールをして

 

…あなたが家庭裁判所に申し立てをしてください…

 

とお願いしました。今まで面倒なことは、すべてわたしが引き受けてきた。最後くらい、父親として責任を果たして欲しかったのです。

 

その後、家庭裁判所から呼び出しの“調停期日通知書“が送られてきました。

 

書面は“夫婦関係調整調停”とあり、これは訴えられたのではない、心配はない旨が書かれており、出席・欠席を返信する用紙と封筒が同封されていました。また、こちら側(申し立てられた側)の意向があれば回答書に記載するようにとの指示はありました。

 

わたしは、先に主人に送っていた申立書を同封して返信しました。

 

当日は父が「嫁に出した側として、どんな風に進んでいくのかを、この目で確かめたい」と同行してくれました。

 

家庭裁判所の8階に10時にとのことでしたので、10分前に到着しました。

 

どうやら8階の待合室が、申し立てられた側。7階の待合室が申し立てた側なようです。

 

待合室は小さめの空港や新幹線など、または病院の待合室のようで、長椅子がふたつ、5列くらい並んでいました。すでに二十人くらいのかたがおりました。

 

わたしたちはプライバシーの配慮から個人名で呼ばれることはなく、事件番号で呼ばれることになります。わたしの場合は604番でした。

 

ほどなくして番号を呼ばれたので父親と一緒に、調停室に向かおうとしたところ、血縁でも入室はできないと言われました。父親に詫びて調停室にはいると、調停委員男女の2名と立会人男性1名がおり、「これは裁判ではないので、裁かれることはありません」と言われました。年齢は、わたしより上でベテランさんといった印象です。

 

初めてのことですし、緊張していたのですが、少しリラックスすることができました。用紙に名前を書くように言われ、すでに主人のサインがあったので先に彼に話を聞いていたことが分かりました。

 

調停委員の女性から「養育費は4万円から6万円支払うといっています」と切り出されて「では6万円で」と率直に話をしました。和解金も本当は500万が欲しかったわけではないし、主人は実家にお金があるものの、彼の稼ぎではないので270万円あれば納得するつもりでした。

 

わたしの意向を聞くと、では待合室でお待ちくださいとのこと。次は主人に条件等を飲むかのお伺いを立てるようでした。しばらくして、また調停室に呼ばれました。

 

「どうも旦那さんは市役所で聞いてきたみたいです。4万円くらいが相場であるし、200万は用意できるが、それ以上は無理だと」また「4万円なら払えるが、それ以上は自信がない」と言ったようです。

 

わたしは納得できません。言っても仕方がないことですが、男らしく無理してでも「娘のために」と言って欲しかった。調停委員さんたちはアドバイザーではないようです。わたしが「どうですか? これまでも、わたしが支払ってきたのに…」というと、それはお互いが決めることなのですとの返答でした。

 

「では250万円で納得します」

 

また待合室に戻りました。次に呼ばれたときには、和解金については希望額で通ったと聞かされました。次は養育費です。調停委員のかたのアドバイスもあり、「4万円と6万円の間を取って5万円で」と提案しました。

 

すると主人も「何度も足を運ぶくらいなら」と同金額で納得してくれたようです。ほかには調停委員さんのアドバイスとして「この家庭裁判所の手続きは非常に効力がある、支払われなければ、きちんと申立することができる」「ご主人の実家に経済力があるならば、彼にまた遺産が入ったときに、養育費を一括で支払ってもらうこともできる」という話もありました。

 

離婚調停はお互いが我を張っていると延々と続くものであり、最終的には弁護士を紹介され、本物のといってはおかしいかもしれませんが、民事裁判になるようです。友人は3回、家庭裁判所に出向き、最後は弁護士さんにお願いしたとのことでした。

 

わたしたち夫婦の場合は、10時にスタートして12時半には双方が納得することができました。一回の面談は15分程度だったと思います。

 

先にお話したように、前に主人が離婚届を持ってきたので、わたしがサインをして役所に出した時点で離婚成立かと思っていましたが違いました。

 

「ここで離婚成立です」と、調停委員さんが教えてくれました。少し気が抜けた感じがしましたが、さっぱりしました。

 

最後は弁護士さんが加わるとのこと。個人的に顔を合わせたくなかったので、「ここに来るのですか?」というと、「先にご主人を呼んでおきます。間に立会人を座らせますので、顔を見なくていいようにしますね」と配慮してくださいました。申立て書に暴力行為の件も明記していたので、調停委員さんが気づかってくれたようです。

 

主人とわたしで、双方納得したという宣言が弁護士さんからありました。先に合意した養育費と和解金の話など読み上げていただき、「相異ありませんね」と聞かれて「相異ありません」と答え、わたしの離婚が成立したのです。

 

離婚は成立しましたが、1週間後に家庭裁判所から書面が届くので、申し立てられた側である、わたしが役所に戸籍を新たにつくらなくてはならないとのことでした。

 

また子どもの氏(名字)をどうするかも考慮しなれればなりません。子どもの戸籍は離婚後も、彼の戸籍に入ることになります。意義がある場合には、やはり家庭裁判所にて“子の氏の変更許可の申し立て」手続きが必要になります。

 

子どもとも相談して、氏はそのままで生活することにしました。親権は母親であるわたしにあり、母と子の氏が違うのも面倒なので、わたしも氏を変えないことを選択しました。

 

1週間後、書面が届きました。

 

役所の窓口に行き、調停離婚成立の書面を出しました。そして彼とわたしの名前を明記して離婚届に記入したのです。

 

わたしの場合は娘があるので、母子の申請も必要です。経済的に非常に裕福とはいえないので、ひとり親助成を受けるためです。

 

現在、手続きを勧めております。ひとり親には、家賃補助や児童扶養手当が受けられるほかにも、水道代や定期代の割引、わたしは東京都民なので都営交通無料などがあります。役所の手続きは面倒ですが、今後の生活には非常に助けになるので、きちんと調べて助成を受けられることをお勧めします。

 

これがわたしの離婚体験のすべてです。思い起こせば、友人らに「早く離婚した方がいい」「あのご主人では駄目だ」と、離婚を勧められていましたが、なかなか踏切りがつかず、気持ちの整理に時間がかかったことは確かです。

 

一生のパートナーとして選んだ相手が違ったと間違えを認める勇気がなかったのと、ひとりになる寂しさと母子でやっていけるかの不安がありました。

 

でも離婚してみて、人生、生きていて元気ならば何とかなるのかもしれないと思えました。離婚はいいことではないけれど、このわたしの選択が将来正しかったのだと思えるように、一生懸命、生きていきたいと思います。

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