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離婚にまつわるコラム

4人の子どもを連れて、離婚を決めた理由

12年間連れ添い、4人の子どもまで儲けた夫と離婚したのは、2年前のことです。

 

出会いは、15年前に遡ります。当時の私は、職場結婚した1度目の夫と離婚したばかりで、結婚の際に連帯保証人になっていた借金を抱えていました。もともとアルコール依存症の父親の自営業がうまくいかず、実家も多額の負債を抱えており、その借金返済の一助になればと、誘われたネットワークビジネスの説明会で、2度目の夫である前夫と出会ったのです。前夫は4つ年下で、なぜか私を気に留めてくれました。勉強会などを通して会話する機会が増えるにつれ、二人の間が急速に近づき、付き合い始めるまでにそれほど時間はかかりませんでした。

 

交際当初から彼は結婚を望んでいましたが、彼も私と同様に両親の自営業の運転資金を自分名義で消費者金融から借り入れており、お互いの経済事情を考えれば現実にはありえない話だと思っていました。それなのに、交際わずか5カ月で妊娠。離婚歴があり、年上で、多額の借金を抱える、シングルマザーとして子どもを育てるつもりでいましたが、授かった子どもが双子であることを知ったことで、彼ともよく話し合った末に入籍することにしたのです。

 

経済的に厳しい結婚生活のスタートでした。私のつわりが重く、妊娠悪阻で入院することになり、必然的に働けなくなったことで家計はさらに困窮しました。そのため、私の実家に転がり込む形で同居をスタートさせましたが、いま思えば、これが離婚への序章だったのかもしれません。当時、夫は中古車買取・販売会社に勤務しており、家庭の事情を理解した社長さんの下で、毎日一生懸命働いていました。車の買取をする関係で、会社にはいつも多額の現金が置かれており、時には同業者に転売した車の代金を預かって、会社に運んだりもしていたようです。

 

双子が1歳を過ぎたある日、彼が真っ青な顔で帰宅してきました。「業者から預かっていた200万を車に置いたままコンビニに行って、カギをかけずに買い物をしている間にお金を盗まれた」と彼は言いました。当時の私たちは、夫婦揃って、自分名義の借金を抱えており、毎月その返済に追われていました。私はそのときは専業主婦でしたし、夫の収入もそれほど高いわけではなく、生活は決して楽ではありませんでした。私は「そんな大金を持ち歩いているのに、車にカギをかけないあなたは不用心すぎる。正直に社長に話して、指示を仰ぐしかないよ」と言い、翌朝、出勤していく夫を見送りました。

 

すると、夫の勤務先から私宛に電話がかかってきたのです。「お宅のご主人が、私のデスクに“車の販売代金200万を紛失してしまいました。申し訳ありません”というメモだけ残して、出社していません。奥さん、これからのことを話したいので、これから自宅に伺ってもいいですか」と言われました。両親には、夫が大金を紛失したことは話してあったので、双子を預けて、自宅近くに停めた車の中で前夫の上司と話をしました。

 

「あなたたち夫婦が、多額の借金を抱えていることはわかっている。社長は借金返済のために、失くしたという200万円を使い込んだと思っています。お金さえ返済してくれれば、事を荒立てる気はないので、彼と話し合ってください」と言われました。夫が隠れている場所に心当たりがあった私は、父の車でその場所に送ってもらいました。

 

見つけた夫に会社の上司が来たことを告げ、「明日、二人で謝りに行こう」と言いました。自分が招いたことなのに、誠意を見せることなく、メモ1枚を残して逃げたこと。その事実は、私の彼への不信感を育てる種になりました。そして、数年を経て、それが彼の本質であることを、私は知ることになるのです。

 

翌日のことは…思い出したくありません。「いつか、こんな日が来ると思っていた」「恩を仇で返しやがって」etc.

ここには書けないほどの罵詈雑言を浴びせられ、でも、謝ることしかできずに、私も一緒に頭を下げ続けました。夫はその場で即刻解雇を告げられ、会社のカギを返却してきました。200万円を弁済しなければ、刑事告訴も辞さないと告げられてもいました。とはいえ、私たちに200万円の大金を用意できるはずもなく、夫は再就職が難しいことから、遠く離れた実家で両親の家業を手伝うことに決め、別居生活が始まりました。

 

私はまだ幼い双子の娘を抱え、途方に暮れることしかできないでいました。そんな最中、夏場はゴルフ場のキャディ、冬場は魚屋でパートをしていた母が、業績不振で冬の仕事を断られ、実家に生活の面倒をみてもらうこともできなくなりました。当時30歳の私の方が仕事を探しやすかったので、子どもを預けて就職をすることにしました。私の給料は通勤交通費を除いてすべて母に渡していましたが、生活は決して楽ではありませんでした。そして、夫はまったく避妊に協力してくれず、こんな最悪の状況で3人目の子どもを妊娠。家計を助けるために働き続けること、何があっても授かった子どもは生むと決め、私は別居生活を続けていました。何があっても夫を支えていくつもりでしたが、夫の両親はまともに給料を払ってはくれず、月々の支払いが滞り始めたのもこのころです。夫と相談の上、私は自己破産の手続きを始めました。私が両親の持ち家を担保に、両親の分まで私の名義で借金をしていたこともあり、その家を売却せざるをえなくなりました。

 

それを機会に、働かずにお酒を飲んでは暴力をふるっていた父との離婚をついに母が決意し、私たちは最低限の荷物を持って弟二人とともに3LDKマンションに引っ越しをしました。春には母がゴルフ場で再び働き始めましたし、弟二人も生活費を負担してくれていたので、私は自分の給料で保育料を払い、検診費用を捻出しながら出産に備えました。産休をとって、無事に出産できたときの喜びは、双子のとき以上だった気がします。

 

夫は出産費用を用意してくれるわけではなく、双子と同様に帝王切開で出産することが決まっていたため、早めに産休に入り、双子の保育園を休ませることで、何とか費用を捻出しました。何かと理由をつけては夫の給料を払わない義父母に対する私の不信感は強まるばかりで、夫も私の住む街に戻って、アルバイトを探すと決め、再び同居を始めたのです。

 

大人5人、幼児2人、乳児1人で同居するには、3LDKは手狭でした。ですが、弟たちも一言も文句を言わずに、甥・姪である3人の子どもたちをとても可愛がってくれました。辛いこともありましたが、私は家族揃って暮らせる幸せを感じていました。ですが、さらに私を悲しませる出来事は、すぐそこまで来ていたのです。

 

ある秋の朝でした。出勤したはずの弟が、玄関に戻ってきたのです。

「姉ちゃん。警察の人が来てるけど」。

マンションの玄関には、夫の所在を尋ねる2名の刑事さんが立っていました。

「今日は早朝勤務で、アルバイト先にいます」と告げると、刑事さんは夫の勤務先に行くからと玄関から出ていきました。

夫からは「これから警察署に行くから。心配しないで」と電話をもらいました。でもその数時間後、警察からの電話で夫が横領罪で逮捕されたことを知らされました。解雇された会社の社長の執念深さも、会社に弁護士ではないものの法務関係に強い社員がいることも知っていた私は、いつかこんな日が来るかもしれないと怯えていました。その不安が、見事的中したのです。

 

私はすぐに勤務先の社長に連絡を取り、弁護士を紹介してもらって、警察署に着替えを持って出向きました。そして、弁護士の先生に「200万円全額が用意できないにせよ、いくらかでもお金を用意して会社に受け取ってもらえれば不起訴に持ち込めるかもしれないので、奥さんはできるだけ現金を用意してください」と言われ、私は夫の両親に連絡を入れました。

 

夫が逮捕された経緯を告げ、「不起訴に持ち込むためにお金が必要なので、協力してほしい」と申し出ると、「そんなお金はない。逮捕されて起訴されたところで1年半程度で出てこられるんだから、それくらい待てばいいでしょう?」と義母に言われました。電話を切って、嘔吐するほど、ショックな言葉でした。そして、義父母はもちろん、義姉、義弟も、夫のために1円たりとも用意をしてくれませんでした。私は母や弟には生活費の肩代わりを頼み、自分の友人に借金の依頼をして回りました。気持ちよく10万円単位のお金を貸してくれたひと、1万、3万という額を現金書留で送ってくれたひと。私を助けるために、たくさんの友人が協力してくれて、120万円というお金を集めることができました。

 

とはいえ、私の苦境を知ったことで、離れていったひとも数多くいます。いろいろな噂を立てられ、その事件をきっかけに疎遠になった仲間も少なくありません。悲しくなかったといえば、嘘になります。でも、子どもの父親を前科者にするわけにはいかない。私を支えていたのは、その思いだけでした。

 

警察署に拘留されている夫に会うために、2歳の双子と生後2ヵ月になろうかという乳児を連れて、私は毎日警察署に通いました。その警察署には、高校時代の友人の夫が刑事として勤務しており、事情聴取で余計なことを言われたりもしましたが、留置係の方はとても良くしてくださり、「今日は検察庁で調べがあるから、面会に来ても会えないよ」と、事前に電話をくださるようになりました。でも、たとえ会えなくても、毎日足を運ぶことが夫と喜ばせることだと思い、手紙を持って差し入れに通いました。夫の拘留中、訴えを取り下げてもらうために、用意できたお金を持って、弁護士とともに夫の元の勤務先の社長のところに改めて謝罪とお願いのために足を運びました。ですが、「全額でなければ受け取らない」とお金の受け取りを拒否され、訴えを取り下げる気がないことも通告されました。拘留期間が終わり、正式に横領罪で起訴された夫は、拘置所に身柄を送られました。

 

生活のこともあり、母のゴルフ場の仕事が休みに入る時期に合わせて職場復帰した私は、会社から拘置所までが徒歩15分の距離だったこともあり、社長の計らいで一日面会に通っていました。拘置所の面会室で15分、ただ世間話をするために通う私のことと、拘置所の職員の方は「なかなかできることじゃない」と言ってくださっていたそうです。

 

毎日手紙を書き、一日おきに拘置所に通い、迎えた裁判の日。夫は実刑になったものの、執行猶予がついて、自宅に帰ってきました。夫は私に本当に感謝してくれていましたし、夫の身内に対する怒りや絶望は解消されてはいなかったものの、自分の家族だけ大切にしていけばいいと私は考えていました。

 

でも、前科者となった夫が就職するのは難しく、やはり家業を継ぐために両親の元に戻ると言います。複雑な心境でした。私が子どもたちを連れて夫の実家に帰省した際も、逮捕・拘留・裁判の過程で何一つしてくれなかったことなど忘れたかのように、何食わぬ顔で私と接する厚顔無恥さに、もう怒りの感情が湧くこともなくなっていました。

 

金銭的な援助はもちろん、面会にも一度も来なかった義父母。私の話を聞いて、「息子さんのために、お嫁さんがこんなにがんばっているのですから、ご両親も協力してください」という電話をかけた弁護士の先生に対し、「不起訴に持ち込めば自分がたくさん金をもらえるだろう」という暴言を吐き、弁護を続けてもらうために土下座して自分が謝ったこと。

 

乳飲み子を抱える私が、どんな思いで金策をして、警察署や拘置所に面会に通い、裁判を傍聴していたのかを、考えようともしない義父母に対して私が決めていたのは、「将来、この人たちが介護を必要とする状態になっても、私は絶対に面倒は見ない」ということでした。この一連の事件で感じた感情は、冷たい氷の塊となって、私の心の奥にしっかり根付いてしまったのです。

 

その後も夫の給料が出るようになるまでには、かなりの時間がかかりました。夫もご父母も債務整理を行うと決めたこともあり、家業の金銭管理を夫がやるようになってからは、少ないながらも定期的に給料をもらえるようになりました。ですが、ここで違う問題が発生するようになったのです。

 

私の勤務先が倒産し、かつての上司が経営する会社に転職して、それまでの2倍・3倍の給料を手にできるようになり、夫の収入をあてにすることもなくなったころ、夫から「店の仕入れのお金が払えないので、5万ほど用立ててもらえないかな」と切り出されました。何とかやりくりすれば問題ない金額でしたし、仕入れができなければ商品をつくれないわけですから、やむを得ないという気持ちでした。

 

ですが、そうした無心の回数が増え、ボーナス時には、10万、20万という単位で私からお金を持っていき、まったく返済がないのです。さらに、私から借金するだけでなく、母にも隠れて借金を依頼するようになりました。

 

当時の私は、金融機関への借金は整理できていたものの、夫の裁判にかかった費用、友人の借りたお金の返済に追われており、決して生活が楽になったわけではありませんでした。それなのに、夫が私から借金しては踏み倒すという事実。

 

夫の不始末で借金をした相手の中に、夫の友人がいないという現実が、何を物語っているのか。考えれば考えるほど、私は夫への不信感を強めていきました。また、義母の無神経さには磨きがかかる一方でした。

 

夫の家業を支えるため、生活費以外のお金の大半を渡していて、生活に1円のゆとりもない状況が続いているのに、「東京の妹のところに遊びに行くのに、お小遣いももらえないなんて」と泣きながら訴えるのです。私は家族旅行をするために貯めていた500円貯金を、夫に差し出しました。「2万円くらいは入っていると思うから、持っていけば」と手渡した貯金箱。夫が逮捕されてから自宅に戻るまで、経済的にも精神的にも支え続けたのは私なのに、私の気持ちを踏みにじる義母を甘やかす夫に対して、初めて憎しみを感じたのは、この時だったと思います。

 

その後、夫の祖母が亡くなり、二男である義父に葬儀費用の負担の依頼があったときも、夫は「お前とお母さんで、いくら用意できる? いま店の口座に金がないんだよ」と平然と言ってのけました。このまま、私は夫と義父母に言いように利用され続けるのかと考えると、虚しくて、深夜に声を殺して一人で泣くことも多くなっていました。

 

夫の逮捕から、私は生理的に夫を受け入れられなくなり、月に1回あるかないか程度しか、セックスに応じなくなっていました。それなのに、なぜか4人目を妊娠。子どもは授かりものですし、検診費用も出産費用も自分で用意できる経済力があった私は、夫が1円も用意しようとしない姿を、何も言わずに黙って見ていました。4人目の面倒を見てもらうために、私は母に仕事を辞めてもらいました。

 

上の3人が小学校に通うようになり、教育費のことも考え、私は稼ぎ手であることを優先し、仕事に邁進しました。でも、夫も義父母も何も変わりません。人間として信用できない、尊敬できない夫とのセックスは、私にとって拷問でした。

 

過保護な母の子どもたちへの接し方に苛立つ夫が、子どもたちに体罰を加える機会が増えたこと、母も夫の怒鳴り声や子どもたちへの暴力を目の当たりにして、自分の結婚生活がフラッシュバックして、過呼吸の発作を起こすようになったこと…。いろいろなことが重なり、ある晩、「私はもうあなたとセックスしたくない。こういうことは、外の女のひととしてください」と宣言しました。

 

夫婦の溝が急激に広がったのは、私のこの一言がきっかけでした。私が過労やストレスからうつ病を発症し、9カ月に及ぶ休職期間を経て退職したことで、我が家の経済状況はまた厳しいものになりました。夫は決まった額は何とか家に入れてくれるようになり、私に借金を頼むことも激減しました。でも、深い愛情を持って苦境を共に乗り切ってきた妻より、自分の両親の思いを優先する夫への失望は日に日に大きくなるばかりで、うつ病が寛解して、再就職を果たすころには、必要最低限の会話しか交わさなくなっていました。

 

そんなとき、双子が「マイコプラズマ肺炎」と「マイコプラズマ気管支炎」で入院しました。夫は仕事で地方出張していたのですが、毎日病院に通う私に労わりの言葉をかけてくれるわけでもなく、入院費の相談をしたら不機嫌に黙り込まれただけでした。それがきっかけで、1番目の子どもが原因不明の熱に悩まされるようになり、総合病院、大学病院と入退院を繰り返す生活に入りましたが、夫はまったくといっていいほど、お見舞いには来てくれませんでした。毎日早朝に大きな荷物を抱えて出かける私を送ってくれることも、帰りに洗濯物を持ち帰る私を迎えに来てくれることもありませんでした。

 

自分に対する仕打ちには我慢できましたが、病名がわからず、入退院が続いている子どもを見舞おうとしないこと、それでもスポーツチームの遠征には仕事を休んで出かけていることを思うと、夫の人間性を疑わずにはいられませんでした。セックスレスが2年に及んだころから、夫は週に何日かしか自宅に戻らなくなりました。夫がいなければ、子どもたちが怒鳴られたり、叩かれたりすることもなく、家庭は平和なままです。

 

再就職先の給料では、子どもたちを養っていけないと思い、不毛な結婚生活を続けていました。夫は息子のスポーツチームの役員を引き受けているのですが、息子のチームメイトでシングルで3人の子どもを育てているお母さんの自宅に、何度も外泊していることを知りました。夫にほかの女性がいることは了承できても、息子はそのチームメイトの部屋に泊まっているときに、夫とその子どもの母親が同室に眠っていることは承服しかねて、「浮気なら、子どもに気付かれないように配慮してほしい」とメールを入れました。

その女性に、私の許可なく娘たちを預けて買い物に行かせたりしていたことも発覚し、夫の無神経さに怒りより悲しみを感じていました。すると、「もう向き合えない」というメールが返信されてきて、別れが近いことを実感したのです。夫への愛情など、すでに枯れ果てていました。残っていたのは、私が努力してきた時間と労力を踏みにじった夫への怒りと、義父母への憎しみだけでした。問題は、私の年収がかつての半分以下で、子どもたちの生活を一人で支える自信が持てないでいたことだけでした。そのメールから3カ月。夫から「別居を考えている。別居するなら、離婚したい」と切り出されました。夫婦としては終わっているので、離婚にはすぐに同意できました。

 

私はアルコール依存症の父親が毎日母親に暴力をふるうのを見て育っており、内実がどうであれ、夫婦としての形を残していることが大切だという意見には懐疑的でした。ですが、当時双子は小学校5年生。3番目は小学校3年生。末っ子は、幼稚園の年中クラスという幼さでした。自分たちの気持ちだけで離婚を決めてしまっていいのかと、悩まなかったといえば嘘になります。でも、「一人になりたい」という夫は止められない。セックスレスで会話もない夫婦である私たち双方に、やり直そうと思う気持ちがないことを考えれば、結論は離婚しかなかったのです。

 

弁護士を入れて、離婚条件を公正証書にすることは、夫に拒否されました。お金があっても、どんな手段を使っても収入を隠し、自分が支払いたくないものには1円も払わないという夫を見続けていた私には、公正証書をつくっても無駄になるという諦めもありました。だから、せめて、私と母が店に貸し付けた金額分は回収しようと考え、私が引っ越し費用を貯めるまでの間は夫の名義で新貸借契約を交わしている借家の家賃を負担すること、3番目が小学校を卒業するまでは、これまでと変わらない生活費することを条件に、離婚を切り出されてから10日で離婚届けを提出しました。

 

当然、子どもたちの親権は私がとりました。夫が「子どもが成人するまでは、俺と同じ苗字を名乗ってほしい」と言ったので、私も苗字は前夫の姓を名乗ることにしました。子どもたちは夫や義父母とこれまで通り会えるようにしたかったので、面会には一つしか条件を付けませんした。その一つの条件が、「親権者の許可なく、4人の子どもたちを、親権者が知らない他人には預けない」というものです。夫はこれは守ってくれなくて、件のスポーツチームのシングルマザーに娘たちを預けては、私を激怒させました。ですが、双子が成長するにつれ、夫の嘘や虚言を見抜くようになり、一緒に出掛けたり、義父母のところに遊びに行く機会も激減しました。義母が私を悪く言うことに、きっと耐えられなかったのでしょう。

 

夫の拘留中、私が送った手紙と彼からの返事、そして拘置所で毎日つけていた日記は、段ボールに詰めて私がまだ持っています。この手記を書くにあたり、10年ぶりに読み返してみましたが…とても悲しかったです。

 

「自分の両親があなたを傷つけて、本当に申し訳ない」

「もし執行猶予がついて自宅に戻れたら、あなたと子どもたちを大切にする」

「実の親は何もしてくれないのに、あなたは金策のためにたくさんの人に頭を下げ、差し入れも欠かさずしてくれて、時間が許す限り面会にも来てくれる。誰が本当に自分を愛してくれているのか、自分が何を大切にしなければいけないのかがよくわかった」

 

そのときの夫の気持ちには、嘘はなかったと信じています。

でも、実際に拘置所を出てから両親と再び仕事を始めてから、事あるごとに、逮捕からの一連の出来事でいかに自分が傷つけられたかが蘇り、「あなたの両親に何があっても、私は絶対に面倒はみない。そのときに苦しむのは、因果応報だと思うから」と言い続ける私に感謝はしても、「親を捨てきれない」と感じるようになってしまったのは、やむを得ないことなんでしょうね。

 

また、夫の必死に努力したけれど、私のようには稼げないでいました。散々苦労をかけた妻に、経済的にもおんぶにだっこでいる自分を責めるより、お金で自分を黙らせる妻を憎む方が楽だったことも、彼が弱くて、自分に甘くて、いざというときに逃げ出してしまうという気質を考えれば、当然の帰結だったのでしょう。4つ年下の夫にとって、夫婦生活を拒絶されることも辛かっただろうと、いまは考えることができます。

 

ですが私も、ずっと思い続けていたことがあります。

「できないい訳をする前に、私と同じだけ努力しなさいよ」。

何か困ったことがあると、すぐに妻に頼るくせに、外では亭主関白風を吹かせる夫は、本気で何かを成し遂げるために、自分を削って努力した経験がありません。自分を守るためなら、平気で他人を裏切りますし、すごく親しくしていたはずの友人と、些細なことで絶縁し、悪口を言いふらすという、私には考えられない人間関係を形成していました。

 

夫が逮捕されても、私を支え、助けてくれた友人がたくさんいたこと。困ったときに、助け起こしてくれる手の多さに、もしかしたら夫は嫉妬していたのかも…と感じることもあります。でも、人間関係は自分でつくるものです。いざというときに、身内ですら自分を助けてくれない状況をつくったのは、夫自身なのです。そういう点でも、私たちは人間的に違いすぎました。一緒に年をとっていくことは、できない関係だったのだと思います。

 

離婚から2年が過ぎて、夫とは月に1度程度は顔を合わせています。子どもの習い事の送迎をお願いしたり、運動会や学学習発表会に来てもらったりと、行き来がまったく途絶えた感じではありません。夫を家に入れることは決してないですし、お金のことで電話やメールで口論になることもあります。ですが、もう他人だと思えば気遣いもできますし、貸した分は回収すると決めた私は、自分の感情を殺して、かつての夫に頭を下げることもあります。それで、私が傷つくことはありません。

 

私も、いまとなっては子どもたちも、「離婚してよかった」というのが実感です。ただ、子どもたちの父親を悪く言わない母親であることだけは、この先も気をつけていこうと思っています。

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