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離婚にまつわるコラム

2年同棲した彼と、入籍1年で離婚した理由

 

彼とは、短大卒業後に入社した会社で出会いました。当時の私は情報誌の制作をスタッフとして働いており、同じ部署に営業として配属されたのが、後に夫となる彼でした。

 

バブル期だったこともあり、仕事が忙しく、残業や休日出勤は当たり前の職場でしたが、スタッフの平均年齢が29歳ということもあり、サークルのような雰囲気が漂う会社で、働く楽しさを味わっていました。

 

私には学生時代から何度も付き合ったり、別れたりしながら5年も付き合っている恋人がいましたが、東京―札幌で遠距離恋愛をしていたこと、私の仕事の忙しさを理解してもらえなかったことで、結婚の話が暗礁に乗り上げたあたりから気まずくなり、結局電話で別れることを決めてしまったころでした。

 

別れ際に恋人の浮気が発覚したこともあり、自分で別れを切り出したのですが、5年も一緒にいた恋人を失うのは予想外の痛手で、さらに職場のスタッフが一人、激務に耐えかねて出社拒否をして、業務が倍増していたこともあり、不眠症と拒食症を発症し、後に倒れて入院をしたほど、心身が弱っていました。

 

そんなとき、彼が入社してきました。

 

彼はずば抜けてかっこよかったわけではないけれど、後に「七色のスーツを着る男」という異名をとるほどオシャレで、仕事がすごくできるわけでもなかったのだけれど、上司にもクライアントにも可愛がられる、一見調子のいい男性でした。

 

社内の年下の女の子には人気があったようで、私の親しい後輩も「●●さんのファンなんです!」と公言するほどでした。一方の私は社内でも気の強さには定評がありましたし、お酒が好きで誰とでも気軽に飲みに行くので、社内外の男性と身に覚えのない噂をたてられることも多かったものです。

 

何度か部課の飲み会で彼と一緒になったり、お酒の席で盛り上がることもありましたが、特に彼を意識することもなく、私は別れた恋人の思い出に縛られたままでした。

 

あれは、所属部課が目標数字を大幅達成した年度末のことです。

 

年間で一番ボリュームのある情報誌を納品したばかりだったこともあり、営業と制作が揃って、祝勝会に繰り出しました。

 

私は2カ月間、残業と休日出勤で200時間オーバーという激務をこなした後だったこと、情報誌の評判が良かったこともあり、その達成感からかなり気分が高揚しており、いつもより、お酒を飲み過ぎていたようです。

 

気が付くと、部課の馴染みのカラオケスナックのカウンターに、彼と二人で座っていました。飲み疲れた私がテーブル席で仲間がカラオケに興じる姿をぼんやり見ていたら、彼に突然聞かれました。

 

「藤井さんはいま、付き合っている人がいるんですか?」と。彼は1つ年上でしたが、社歴が2年私より短いこともあり、私に対してはいつも敬語でした。

 

「いまは…いないかな」

 

「じゃ、僕と付き合ってくれませんか?」

 

まさに青天の霹靂でした。彼は私の親しい後輩とよく一緒に出掛けていたし、これまで彼の好意を感じたことはありませんでしたから。

 

「酔っているからって、言っていいことと悪いことがあるよ。誰に何を吹き込まれたか知らないけど、私は誰とでも寝るわけじゃないから」

 

その返事は、ピシャリと撥ね付ける強さだったと思います。でも、彼はまったくひるみませんでした。

 

「きちんと、真面目に付き合ってほしいと思って、精一杯の勇気で告白しているんです!」彼の返答の激しさに、今度は私が驚く番でした。店内にいる同僚たちは、私たちの会話にまったく気が付いていません。かといって、別れた恋人を忘れて、誰かと一から始める気力が、その時の私にはなくて、

 

「本気だったから考えるから」と言い続けることで、その場をうやむやに流してしまいました。

 

それくらい、彼の告白は意外なものでしたし、自分の気持ちが動くほどの興味を、私は彼に対して持っていなかったのです。彼への見方が少しずつ変わり始めたのは、職場でのトラブルがきっかけでした。

 

情報誌の制作がひと段落して、クライアントのパンフレット関連の仕事が重なっていた時期に、私より社歴の浅い、でも年上の女性スタッフ2名がペアを組んだ仕事が進行していました。不慣れなペアの二人が担当する仕事は何かと不備が多く、仕事の工程も理解できていないようで、スケジュール通りには進行できずにいました。

 

その日私は風邪で高熱があり早退していたのですが、課長に業務の進捗状況を報告するように求められた二人は納得のいく説明ができず、自宅で休んでいる私に「出社して、上司に報告してほしい」という電話がかかってきたのです。進捗報告については私から二人に何度となく説明していましたし、39℃の高熱を押してまで出社する気にはなれずにいましたが、「来てもらわないと困るから」の一点張り。

 

仕方なくタクシーを呼んで出社し、フラフラになりながら課長に5分で報告したら、「よく、わかった」と終わる内容で…。

 

「すみませんが、立っているのが辛いので帰ります」と告げ、会社を後にしましたが、当事者の二人からは謝罪も労いの言葉もなく、帰りのタクシーの中で涙が零れたのを覚えています。

 

後で聞いた話ですが、この時、彼は私を送ろうと社用車のカギを取りに行ってくれていて、私が一足早く帰ったことを知ると、この二人に詰め寄ったんだそうです。

 

「体調が悪くて早退している人を、たった5分のために呼び出すなんて、何のための担当なんだ!」と。その話を、可愛がっていた後輩経由で聞いたとき、すごく心が温かくなりました。

 

それから、彼の仕事を意識して見るようにしたところ、彼が私の仕事を少しでも楽にするために、スケジュールより早く進行するように心がけていてくれたり、私が忙しさで煮詰まっていると、チョコレートやキャンディをデスクに置いてくれていることに気が付きました。少しずつ、彼に気を許している自分がいました。

 

そして、会社の報奨旅行で部課全員で温泉旅行に出かけた時、改めて彼に告白されたのです。私は彼の思いを受け入れて、付き合うことを承諾しました。

 

でも、一途に愛したかつての恋人との恋愛の傷が深かった私は、心の底では「自分が好きな人より、自分で好きでいてくれる人と一緒の方が幸せになれるかもしれない」と考えていました。彼を本気で好きだったわけではないけれど、二人で時間を重ねるうちに愛情は育つだろうと考えて、交際をスタートさせたのです。

 

社内恋愛には寛容な会社でしたが、同じ部課に相手がいることを知られると、仕事がしにくくなります。また、私を慕ってくれていた後輩が本気で彼を好きなことを知っていたので、私たちは秘密の交際を続けていました。

 

ですが、社内恋愛はいつまでも隠しきれるものではありません。私たちの交際が、直属の上司の耳に入り、問題視され始めたのです。さらに私が仕事の繁忙期に卵巣嚢腫で入院を余儀なくされたこともあり、課長と彼との間で話し合いが持たれ、私の意思を確認することもなく、3カ月後に私が退職することに決まりました。

 

彼の身勝手さには唖然としましたが、「将来を考えて真剣に付き合っているから、俺が会社に残ってしっかり基盤をつくるから」と言われれば、私には何も言えませんでした。その頃、別れた恋人が浮気相手と付き合い始めたことを知ったこと、酒乱の父のいる実家から逃げ出したかったこともあり、私も早く結婚したいと思い詰めていたのです。

 

ですが、私の退職日を1カ月半後に控えたある日、とんでもない事実が発覚したのです。

 

その頃の私は、いいようのないだるさと微熱が続いていました。生理が遅れていることに思い至り、妊娠検査薬を使って調べたところ、何と陽性でした。その瞬間、目の前が真っ暗になったのを、覚えています。そうです。私はその妊娠を喜べなかったのです。

 

私は“彼と結婚したい”と思っていたはずなのに、その子どもを産みたいと思えない自分に戸惑っていました。そして彼も、私の妊娠を喜んではくれませんでした。彼との結婚に踏み切れなかった私と、「今回は諦めて…」という彼。私は中絶手術を受けました。手術前夜、つわりに苦しみながら、「なぜ、結婚するつもりだからと言って、私の退職を勝手に決めたのに、彼は私にプロポーズしなかったんだろう?」と、一晩中考え続けました。

 

でも、お腹の子どもを産みたいと思えなかった私にも、十分問題があることがわかっていました。私は、一つの命を葬ってしまったのです。そして、さらに2週間が過ぎたころ、どうして私たちが結婚に踏み切れなかったのか、その理由を思い知らされました。

 

その日、彼の車の掃除を手伝っていた私は、恐ろしいものを見つけてしまったのです。それは、月に給料の手取り額以上になっているクレジットカードの請求書であり、消費者金融の督促状でした。

 

「これは何?」

 

紙の束を突きつける私に、彼は涙を流しながら話し始めました。彼は同僚として働く会社に入社する前、大学に在籍していました。大手の製紙会社で働く家庭で何不自由なく育ち、贅沢が骨身にしみていたようです。身の丈にあった暮らしができず、高級なスーツや靴、ブランド物の時計など、欲しいものは何でもカードで購入したそうです。ですが、カードの引き落とし日に全額が用意できるわけではありません。

 

消費者金融でキャッシングをしてしのぎ、気が付くと複数の会社から限度額目一杯まで借入れをしてしまっていて、それに気が付いた両親が後始末をしてくれたんだそうです。そのため、彼は大学を中退し、両親への借金返済のために就職したのでした。

 

なのに、当時は景気が良くて、報奨金もよく手にする会社で働くようになり、また着飾ったり、後輩に奢るといった悪癖が頭をもたげてきたのだそうです。私が知った時点で、彼は200万円以上の債務を抱えていました。

 

私はすべての話を聞き、「一緒にがんばるから、ちゃんと返済しよう」と言いました。そしてその足で、彼を可愛がってくれる、かつてのアルバイト先の上司のところに一緒に相談に行きました。金融機関に顔が利く元上司の口添えがあれば、消費者金融の債務を一本にまとめて、月々の返済額を減らせると考えてのことです。

 

元上司の口利きで、とある信用金庫に融資の相談に行った際に提示された条件が、私が彼と一緒に生活をして、家計を預かることというものでした。素直に頷けたのかと聞かれたら、いいえと答えます。でも、中絶してしまった子どものことを考えると、この苦労を避けて通るわけにはいかないと思い込んでいました。そして、私の実家に事情の説明に来てもらいましたが、当然反対されました。

 

とはいえ、父も酒乱でまともに働いてはいませんでしたし、自分が一度決めたことを、人に何か言われて翻すような娘でもありませんでした。また、彼の両親にも思いとどまるように説得されました。でも、私には殺してしまった子どもに対する償いをするためには、他に道はないと思い込んでいました。

 

「私が彼と出会う前に彼が両親から借りたお金も、二人で返します」と、彼の両親にも伝えました。そして私は強引に荷造りをして、退職と同時に、彼との生活をスタートさせたのです。

 

同棲生活は、それなりに楽しかったです。酒乱の父の暴力に晒されることもなく、母の泣き顔を見ずに済みましたから。

当時、私たちの月の収入は合算して25万円程度。家賃5万4000円の部屋で、月に8万円ほどの返済は、それほど生活を切り詰めなくても何とかなりました。家具も寄せ集めだし、贅沢は何もできなかったけれど、夢見ていた生活とは違っても、自分の家があることを、とてもうれしく思っていました。

 

それまで自分のものを洗濯する程度の家事しかしていなかったのに、料理の本を見ながらいろいろな料理にチャレンジしたり、彼や私の後輩を招いて、家で食事会をしたり…。手の込んだ料理を作っていて、最後の仕上げで失敗し、すべて片づけて位置から夕食を作り直したこともありました。料理好きな彼の方が、おいしいものをたくさん作れたけれど、苦手な野菜も私が調理すると食べてくれる様子を見て、愛されているんだと思えました。そして毎日、自分のところに帰ってきてくれる人がいることが、こんなに自分を幸せにしてくれるものとは知りませんでした。

 

深い愛情があって始まった同棲生活とは言い難いものでしたが、日々を積み重ねるうちに気持ちが追い付いていくのだろうと漠然と考えていました。借金返済は5年。当時24歳の私は、30歳までに生活の目途をたてて、失った子どもを取り戻したいと考えていました。私が中絶した後、彼は子どものことには一切触れようとしませんでしたが、私の心の奥には常に亡くした子どもの影がありました。でも、そんな蜜月は長くは続きませんでした。

 

彼の浪費が上司の知るところとなり、仕事のミスも重なって、退職を余儀なくされたのです。私の上司であった方に、「苦労させるために、藤井をお前に任せたわけじゃない!」と、送別会で説教されたと、彼が自嘲気味に話していました。心配してくれる元上司には、本当に感謝しています。でも、挨拶に行けるような立場にない私は、その後、その上司に会う機会を設けられまいまま、転勤されてしまったと聞きました。私たちの関係が下り坂を転がり始めたのは、まさにこの頃だったのだと思います。

 

自宅近くにパートに出ていた私は、再就職先を探し始め、保険の外交員として働き始めました。保険の外交員は、月の契約件数で基本給や賞与の額が変わります。そこに社歴は一切関係なくて、契約件数がとれていれば、毎日3時に帰っていても、咎められることなどありませんでした。両親や弟、友人などに保険に加入してもらったことで、私は成績優秀者に選ばれ、月給も賞与も跳ね上がりました。月の契約ノルマは2件だったので、最初の半年は、縁故関係をあたるだけで、難なく目標達成していました。いま思えば、このころから私の金銭感覚も、少しずつ狂い始めていたのでしょう。

 

一方の彼は、クライアントに誘われる形で、教育関係の仕事についていました。前の会社で出入りしていて気に入られての転職だったこともあり、職場の居心地は良かったようです。一度ブラックリストに載った彼は、カードを持つことも、キャッシングすることもできなかったので、毎月私が給料を預かり、決まった額のお小遣いを渡し、すべての支払いをして残ったお金で生活するようにしていました。

 

ですが、私の収入がアップして、生活に余裕ができたこともあり、彼が望む新車を買ったり、通勤に便利なところに引っ越したりと、身の丈に合わない生活を始めてしまったのです。私の実家から徒歩5分のところに居を構え、両親にも認めてもらえたことから、同棲して2年で入籍を果たしました。絶縁状態になっていた彼の両親に、私は手紙を書きました。

 

「いまはまだ、会うことは叶いませんが、二人で借金を返済したら、いつか笑顔で会えると信じています」それは、まぎれもなく、私の本心でした。この時、わずか1年で離婚することになろうとは、夢にも思わなかったのです。

 

破局の前兆は、彼の口座に30万円もの入金があったことでした。勤務先では自家用車を使っての出張が多く、「会社が車にナビを付けてくれるって言ってたから、そのお金が振り込まれたんじゃないかな」という彼の言葉を、私は疑いもしませんでした。ですが、それは、会社が保証人になることで得られたカードで引き出した、キャッシングした現金だったのです。

 

彼はまた、車や着るものにお金をかけ始めていました。当初は、自分が稼げていたので、それほど深刻には考えていませんでした。何より、彼の口座に入っていたお金が、新たな借金であることなど、想像もできませんでしたから。ですが、保険に加入してくれた友人の仕事が行き詰まり、保険料は払えなくなったと連絡がきて、私が肩代わりして支払うようになると、途端に生活が苦しくなりました。

 

保険契約は、加入後2年以内に解約されると、外交員にペナルティが課せられ、給料が大幅に減額されます。当然、査定も下がります。その友人が加入してくれた保険が、一番成績になる保険だったこともあり、解約されると付きの手取り額が10万円以下になるのが目に見えていました。目先のお金の算段しか見えていなかった私は、一度給料が下がっても、また上げればいいという考え方ができませんでした。そして、その減額分を埋めるために、自分の弟名義で保険を契約し、自分が保険料を負担するという、本末転倒なことを始めてしまったのです。

 

それが後に家計を破たんさせるきっかけになることにも、まったく気付けませんでした。そんな自分の浅はかさが、いまでは恨めしいです。

 

ちょうど同じころ、実家でも大変な事態に陥っていました。父が住宅ローンを200万も滞納し、自宅が差し押さえにあう寸前だったのです。母は持ち家に固執し、「家がなくなったら、家族がバラバラになってしまう!」と半狂乱でした。当時、二人の弟は大学生で、まだ実家で暮らしていました。でも、私大の学費は自分たちで稼いでいましたし、アパート暮らしでも問題ないのでは?と思ったのは事実です。でも、母は一切聞く耳を持たず、かといって自分が何か行動を起こすわけでもなく…。やむなく私は、手持ちの現金をすべて実家に持っていき、母の兄である伯父に借金を申し込み、何とか差し押さえを回避しました。

 

とはいえ、自分とは関係ない借金がさらにかさみ、返済額が増えたことは事実です。そして、1カ月後に返すと言ったから実家に貸したお金は、予定通りに戻ってきませんでした。夫婦二人合わせても、その収入から返済額を引けば、家賃を払うので精一杯です。やむなく私は、クレジットカードでキャッシングして穴を埋めました。そうして、私自身の債務も膨れ上がっていったのです。

 

このままでは共倒れになってしまうと考えた私は、保険外交員を辞め、通販化粧品の広報企画の仕事を始めました。必死に生活を立て直そうとする私を気に掛けることもなく、夫が何をしていたかといえば、私に内緒でさらに借金を増やしていたのでした。

 

事の発端は、勤務先で仮払いされた出張旅費を使いこんだことが発覚したことでした。理由を問うと、「カードの支払いに足りなかったから」と答えました。「カードは一緒に暮らし始めるときに、全部処分したはずでしょう?」と激昂する私に、「結婚したら、お前の収入も合算になるから審査が通った。俺だって、服も靴も時計も、欲しいものがたくさんあるし、月に3万円のお小遣いなんかじゃ足りないんだよ!」と居直られたのです。

 

お小遣いが足りないから、カードで買い物?現金がないと遊びにくいから、キャッシング?私には、夫が何を言っているのか、まったく理解できませんでした。この瞬間、私の中で何かが崩れてしまいました。

 

私にも、悪いところはたくさんあったと思います。仕事にかまけて家事は最低限しかやっていなかったし、自分の家庭に余裕がないのに実家に援助をしようとしたりして。また、目先の利益ばかりを追いかけて、結果的に自分も借金を重ねたという事実は消えません。借金だけなら、もしかしたら許せたかもしれません。でも、会社のお金を使い込んで、解雇通告されたことに対して、申し訳ないとは一言も言わなかった夫を見て、愕然としてしまったのです。

 

そしてその時、私は気付いてしまいました。私が夫をまったく愛していなかったことに。

 

すぐに実家に戻り、離婚したいので、引っ越しをする予定だと告げました。すると両親は「この家に戻ってくればいい」と言ってくれました。私は夫の留守中に、自分が持ち込んだ家具と荷物を運び出し、離婚の話を切り出しました。

 

「俺はお前と別れたら、誰が俺の借金を払ってくれるんだよ」一度は添い遂げようと思った夫の本性を、表している言葉だと思いました。別居に際して、自分が連帯保証人になっている債務に関しては、苦しい家計の中からやりくりして、何とか支払いを続けていましたが、彼の名義のクレジットカードやキャッシング分を、私が払ういわれはありません。

 

「私だって、返済しなければならない借金があるの。自分が作った借金は、自分で払ってよ!仕事も探さず、人に頼ろうなんて、男として恥ずかしくないの!」何度、こんな不毛なやりとりが続いたでしょう。

 

私の新しい職場の社長が、「お金を払えば離婚できるなら、慰謝料を払ってでも別れた方がいい。実家を担保に融資してもらえるように、知り合いの金融機関に頼んでやるから、仕事に集中できる環境をつくれ」と言ってくれました。

 

父の名義のクレジットや消費者金融の債務も滞っていたものがたくさんあり、結局私の名義で実家を担保に1500万円の借り入れをしました。月の返済額は18万円。それが15年続く契約でした。審査が通って、融資が行われる前日に、私は夫に連絡を入れました。

 

「私たちが一緒になるときに、お義父さんに払うと約束した、あなたがご両親からした借金は、離婚してくれるなら私が清算する。離婚するかしないか、いま決めてほしい」

 

夫はすぐに離婚に同意しました。そして、すぐに離婚届けが郵送されてきました。その離婚届に署名捺印し、区役所に提出しました。別居後も、「生活費を貸して」とう名目で、私や弟から30万ほどの借金をしていたので、清算金100万円から30万を引いて振り込むことで、夫も同意していました。これですべての縁が切れると思っていました。

 

ですが、それから1週間たって、彼のお義父さんから私のところに連絡が入りました。

「あなたが返済すると言っていたお金が、まだ入金されていません。離婚の条件だったはずなのに、話が違う」と、一方的にまくしたてられました。

 

「ちょっと待ってください。私は1週間前に、彼が指定した口座に返済分のお金を振り込んでいます。振り込みの控えが手元にあるので、すぐにファックスしますから、その目で確認してください」私がファックスを送ると、お義父さんは彼に連絡を入れたそうです。そのお金は、すでにもう1円もありませんでした。離婚の際に、私にも隠していた別の借金返済と、後輩との遊興費に使ったのだそうです。

 

離婚したことで、彼を契約者に、私が連帯保証人になっていた借金の名義も、私に移して返済していましたし、自分は約束を守っているので、恥じることは何もないと考える努力はしていました。でも、「振込口座を教えて」と連絡した時、「やった。これで何とかなる!」と電話口で喜んでいた理由は、そのお金を両親に返すことには使わず、自分の苦境を回避することに使えるからだったんですね。もう呆れるとか、悲しいとか、腹立たしいとか、一切の感情は湧いてきませんでした。ただ、一緒にいた3年は何だったのかを考えた時、虚しさでいっぱいになりました。

 

でも、いま振り返れば、私にも反省点はたくさんあります。まず、自分が愛している人と結婚しなかったこと。

そして、結婚前に経済的な問題も含めて、きちんと見通しをたてておくべきだったこと。

夫の対して無関心で、再び借金を始めつ兆候に気が付けなかったこと…。

高い授業料になりましたが、それでも、この結婚で私は一人で何でも対処する強さを、身につけることができました。

 

父もお金にだらしない人ですし、別れた夫もそうでした。自分がしっかりしなければと思えば思うほど、女としての幸せが遠のいていくことに、このごろ、ようやく思い至りました。でも、すべては自分で選んだ結果。自分の責任です。この現実から逃げることなく、自分が一番自分らしくいられる幸せを、これからも探し続けたいと思います。

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