tel:0120-59-2312

フォームでのお問い合わせ


離婚にまつわるコラム

昨年、2年連れ添った夫と別れました

2年という短い結婚生活でしたが、離婚のときには親権の問題、養育費などで揉めしました。結婚するよりも、離婚する方が何倍も大変だといいますが、その通りです。

 

私が、夫・一樹と出会ったのは、今から5年前でした。大学を卒業し、都内でOLとして働いていた私が、同僚と訪れたレストランで働いていたのが一樹でした。

 

会社から近いこともあり、頻繁に通うようになり、一樹とは自然と話をするようになりました。その後、共通の趣味があることから話が盛り上がり連絡先を交換し、交際に発展しました。一樹は、一般的に言うフリーターというもので、当時給料もあまり多くありませんでした。私は正社員として働いていたため、ボーナスもあり、ある程度給料をもらっていました。交際するようになり、休みがなかなか合わない面や、金銭的な面などで喧嘩もしましたが、何とか1年交際が続き、同棲をするようになりました。一樹は働いていたレストランを辞め、私との結婚を目標に、小さな会社の営業職に就きました。給料は多くなかったものの、一生懸命働いてくれ、結婚資金も貯めることができました。その後、交際から2年で、私たちは結婚しました。

 

お互い子どもが好きだったこともあり、結婚後、すぐに子どもを作りました。しかし私は悪阻(つわり)がひどく、会社も休みがちになってしまいました。上司は「気にすることはない」と優しく声を掛けてくれましたが、当時入社3年目だった私は、内心とても申し訳なく思っていました。そんなとき、一樹から専業主婦にならないかと話をされました。彼の母親は小さいときに父親と離婚を経験し、女手一つで彼と彼の兄弟を育ててきました。毎日朝から晩まで働いていたため、ほとんど家にいることはなく、一樹はおばあちゃんに育てられたといいます。そのため、子どもには寂しい想いをさせたくないという気持ちがあるようでした。私はそんな一樹の気持ちを受け止め、仕事を辞めることにしました。当時、これから子育てにいくらお金が必要になるのか、出産後の社会復帰の大変さなどを考えないまま、彼の言葉に甘えてしまっていました。これは今でも後悔していることですが、女性は特に出産後はとても仕事が見つけにくいものです。辞めずに育児休暇を取っていれば、と今でも後悔しています。

 

その後、順調に結婚生活と妊婦生活を送っていました。私ははじめての出産ということもあり、出産は実家の方に里帰りをする予定でした。私の実家は愛媛県。そのため、一樹はなかなか会いに来られない状態になりました。出産予定日より2か月半前に実家に戻ってきた私は、毎日一樹とメールや電話で連絡を取り合っていました。しかし1ヶ月が経つ頃には、毎日あった電話がなくなり、メールの回数も減りました。私は初めての出産の心配からか、一樹のそのような変化には気が付かないふりをしていました。出産予定日の2日前、陣痛が私を襲いました。すぐに一樹に連絡を取るものの、なかなか連絡が取れませんでした。結局連絡が取れないまま、私は出産を終え、可愛い男の子を授かりました。その後、数時間経った頃、一樹から両親に今産婦人科へ向かっていると連絡がありました。

 

私は出産の疲れからか、部屋に戻りベッドに横になっていました。痛みからかなかなか寝付けなかったものの、息子が誕生したことに喜びを感じていました。そして、やっと一樹がやってきました。久しぶりに会う一樹は、少しやせたように感じました。初めてわが子を見た一樹は「可愛いね」と感動している様子でした。しかし、次の日に仕事があるからと、一樹は病室に数時間だけ滞在をし、帰って行きました。私はとてもさみしかったです。また、彼が私の目を見ようとしていなかったことにも気が付きました。この時、やっと私たち夫婦の関係が良好でないことがわかりました。その後は、毎日子育ての日々。1日3時間ほどしか睡眠をとれない生活が1ヶ月ほど続きました。両親は協力してくれるものの、初めての育児は予想以上に大変でした。出産から2か月後、一樹のいる家に帰る予定でいましたが、連絡も減り、夫婦としてやっていける自信がどんどんなくなってきました。メールは1週間に2通ほど。メールの内容は、決まって息子のことでした。私が仕事のことを聞いても、無視。実家に来ることを頼んでも拒むようになりました。両親には、一樹の変化について心配を掛けたくない気持ちで、秘密にしていました。しかし出産から2か月後、都内の家に帰る日がやってきました。しかし一樹からは連絡がなく、小さい子どもを抱えて帰るには不安が大き過ぎました。そのため、両親にやっと今の状況を打ち明けました。私の父は「おまえが一樹君に何かしたのではないか?」と言ってきました。たしかに出産前は、気持ちがピリピリしていた時期もありました。しかし、思い当たる原因もなく、両親に経緯を伝えると、2人とも不思議そうな顔をしていました。私の両親は、一樹がフリーターから正社員になり、私のために一生懸命働いている姿を知っていたので、夫婦関係が壊れてしまったことを不思議がっていました。それと同時に、子どもが生まれたばかりなのに、会いにも来ない一樹の不誠実さに呆れている様子でした。

 

私は一樹に「一度連絡したいから、実家に来てほしい」とメールをしました。この頃には、私からの電話には出てくれなくなっていたのです。しばらくして「今は会えない」と連絡が来ました。そしてそのメールから数分後、「お前とはやっていけない。別れたい」とのメールも入りました。メールでそのような重大なことを打ち明ける彼に失望したと同時に、怒りがこみ上げてきました。しかしそれから何度連絡をしても、彼が電話に出ることはありませんでした。

 

両親に子どもを見てもらい、私は一樹と話をするために、一度都内の家に戻りましたが、そこには一樹の姿がありませんでした。普段は7時半には家に戻ってくるのですが、彼は帰ってこず、話し合いすらできない状況でした。何か手がかりを探そうと、私は家のパソコンを調べました。一樹と私は家のパソコンを共有していたため、パソコンの使い方は知っていました。私はネットの履歴から調べることにしました。すると、mixiを頻繁に利用していることがわかったのです。彼と私はマイミク(mixi上での友達)ではありませんでしたので彼の日記や、つぶやきなどの投稿を見ることはありませんでした。パソコンでmixiのサイトを覗いてみると、自動ログインがされていて、彼のmixiアカウントをみることができました。私は最初に日記を見ることにしました。日記は数か月前に更新されていたものの、内容は仕事への愚痴でした。結局日記には怪しいところはありませんでした。次にメッセージを見てみることにしました。メッセージとは、mixiをしている相手と、メッセージのやりとりができる機能です。すると、同じアカウントの相手から、連絡が頻繁に来ていました。恐る恐るメッセージを見てみると、「今日はありがとう、とっても楽しかった」などと、女性と会っている様子がうかがえるメッセージが次々と出てきました。そのことから、一樹が浮気していることがわかったのです。私はメッセージを送っている相手のmixiのプロフィールをのぞいてみました。彼女の自己紹介を見てみると、彼女の仕事は、キャバクラ嬢でした。キャバクラ嬢ということは、一樹は本気の浮気ではないだろうと、内心ほっとしました。しかし、彼女の日記をのぞいてみると、そこには、一樹とのデートの様子などを綴った恋人らしい内容が書かれていました。そして、彼女の日記には「早く奥さんと別れてほしい」と書いてあったのです。これには、私も正直参りました。既婚者と知って付き合っていること、そして彼女が本気であることは、とてもショックでした。私は一樹が都内の私たちのマンションに帰ってこない理由は、彼女の家で新しい生活を送っているからだろうと考えました。しかし居場所もわからない、連絡も取れない状況のため、彼と会うすべはありませんでした。相手の女性にmixiからメッセージをおくればよかったのかもしれませんが、私にはその勇気がありませんでした。

 

次の日、一樹の仕事先をしっていたので、連絡をしてみると「本間さん(一樹)は2か月前に仕事を辞めました」と言われました。何も相談なしで仕事を辞めていたことは、とても悲しかったです。夫婦としてやってきた1年間は、一体何だったのか、どうしてこうなってしまったのかという後悔が私を襲いました。その後、彼のお母さんの連絡先は知っていたので、携帯に連絡をしてみると『現在この番号は使われておりません』とアナウンスが流れました。私は一樹からすべてを拒絶されていたのです。私は彼の実家にも手紙を送りました。一樹と連絡が取れないこと、浮気をしていること、そして孫である息子の写真を添えました。しかしいまだに返事はありません。きっと義母さんは、見て見ぬふりをしていたのだと思います。女手一つで彼と彼の兄弟を育ててきた頼りがいのある義母は、最終的に私にとって憎い相手となってしまいました。

 

私は実家に戻り、両親に状況を話しました。孫を可愛がっていた両親にとって、一樹の行動は理解できないと怒っていました。その後、両親と話し合い、調停離婚をすることにしました。この時には、すでに息子は4か月になっていました。実際に一樹が息子に会ったのは、出産した日、それも数時間だけです。調停では、関係を修復する話し合いもできるようでしたが、私は自分の人生をやり直す意味でも、離婚をいう選択肢を選びました。「子どもも愛せない父親はいらない」と思ったのです。家庭裁判所に連絡をすると、「通常は相手側の住所がある裁判所で調停が進められる」と話されたので、私は調停のたびに都内に行くことになりました。一樹にはメールで「調停で話し合いましょう。裁判所からの手紙はマンションに届くから」と伝えました。彼からは「何も話すことはない」とメールが来ましたが、裁判所から手紙があれば、ふつうの精神を持っている人であれば、やってくるだろうと思っていました。その後、裁判所から手紙が届き、1か月後に一回目の調停が開かれることになりました。私は「養育費3万円」「慰謝料150万円」を提示することにしました。もちろん親権は私が取るつもりでした。私は調停までの1か月間、情報収集をし、有利に調停をすすめられるように準備をしました。そして、いよいよ調停の日。私は緊張しつつも、時間の10分前に裁判所に到着しました。受付をしていると、聞き覚えのある声が聞こえてきました。それは、一樹と彼の母親でした。私はなぜか逃げるように、待合室に入り、彼と顔を合わせないようにしていました。20歳半ばの男性が、調停に母親を連れてくるとはとても情けなく感じました。

 

名前が呼ばれ調停室に行くと、男性一人、女性一人の調停員がいました。私は離婚をしたいこと、養育費のこと、離婚前の経緯、一樹の浮気についてなどを話しました。調停員は、話を聞いた後で「また呼びますので、待合室で待っていてください」と言いました。その後、30分ほどしてまた私が呼ばれました。私が待合室で待っている間に、一樹が調停員と話をしたようです。調停員の話によると、一樹は「理子(私)のせいで鬱になった」「理子が浮気をしてできた子どもだから、俺の子どもではない」と主張したといいます。まず一樹は、子どもを養っていかなければいけないプレッシャーと、妊娠中の私の態度などから、鬱になってしまったといいます。それが理由で一樹は仕事を辞めたと言っていたとのこと。また、私が会社の同僚と浮気をしていたなどと根も葉もないことを言っていたようです。以前一樹が勤めていたレストランに、一緒に食事に行った同僚の男性との浮気を疑っていたそうです。たしかに仲が良い同僚でしたが、彼には奥さんも子どももいるため、決してそのような仲ではありませんし、一樹とも仲良くしていました。一樹がそのように同僚を見ていたとは、ショックでした。

 

そして一樹は自身の浮気については「事実無根だ」と否定したといいます。今は実家に住んでいると語っていたようです。私は、彼が女性とのメッセージのやり取りを、印刷して調停員に見せました。しかし調停員からは「mixiはパスワードさえ知っていれば誰でもログインができるので、彼が書いたメッセージでないかもしれない。証拠としては不十分」と言われてしまいました。探偵でも雇えばよかったのかもしれませんが、金銭的なことを考えると、そのような行動には移せなかったです。

 

私は調停中にも関わらず、一樹の言い分に悔しくて泣いてしまいました。泣かないと決めて挑んだ調停でしたが、彼が発した発言は、私を完全に否定するものでした。もちろん私は浮気をしていませんし、彼の子どもで間違いありません。彼の主張が間違っていることを調停員に伝えると、「あなたの言っていることが本当だと思う」と言ってくれました。しかし、養育費の支払いについて彼は「仕事を辞めて払うお金がない、鬱の治療費に使った」と支払を拒否したといいます。自分の子どものために、月3万円すら払えないとはとても情けない気持ちになりました。そして、子どもに対して申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。その後、次の調停の日程を決めて一回目の調停は終わりました。その後私は都内のマンションに、荷物を取りに行き、実家に戻りました。一樹はやはりマンションには戻っていないようでした。マンションからは、私の荷物を宅急便で3箱ほど送りました。もうマンションに来る必要がないように、必要なものはすべて実家に送りました。実家に帰り、息子の顔を見た瞬間は涙が止まりませんでした。両親は私の気持ちを察してくれたようで、深くは聞いてきませんでした。

 

次の調停までの間、私はこれからのことを考えていました。まず私は働きに出ないといけないと思いました。いつまでも、クヨクヨしていても、子どもを食べさせていくことはできないからです。前回の調停の態度からすると、一樹は慰謝料、養育費を払う気はないことは明白でした。そのため、一樹からの援助を期待することはできませんでした。

 

その頃、ちょうど近所の役所で弁護士の無料相談会があるということで、一度足を運びました。彼のことを話すと、「まるで子供だね」とあきれている様子でした。しかし、浮気の証拠もないこと、そして婚姻期間が短いことから、慰謝料や財産分与を取るのは難しいと話をされました。私は一樹から毎月決まった額をもらっていて、財布は一樹が握っていたため、貯金額などはわからないことを告げました。普通であれば、奥さんが財布を握っているのかもしれませんが、我が家の場合は、一樹がどうしてもお金を管理したいというので、彼にすべて任せていました。ただ、彼の給料は低かったので、毎月貯金をする余裕はないと思います。私が働いていた頃は、自分の給料は私が管理していたため、私には貯金が150万円ほどありました。これから子どもとやっていくには、十分な金額ではありませんが、仕事が決まるまで食いつなぐことはできます。また、そのお金で資格を取得し、就職につなげようとも考えていました。

 

弁護士には、「つらいかもしれないけど、慰謝料などは諦めて前に進んでもいいのではないか」と言われました。彼が鬱であること、仕事をしていないこと、お金を取る手段がないことはわかっていました。ただ、私はとても悔しく、意地でも彼から慰謝料を払ってもらいたい気持ちは変わりませんでした。その後、両親に相談をすると「自分の子どもを可愛がれない男が、養育費を払うとは思えない。自分で働いて育てなさい」と弁護士同様に、慰謝料などを諦めるように言われました。しかし養育費は、子どもの権利なので、私は諦めきれませんでした。

 

そして、二回目の調停。一樹はひとりでやってきました。私は以前と変わらず慰謝料、養育費を求めました。調停員の話によると、一樹は「払えない」と一点張りだったようです。仕事を辞めてからも家賃の支払いや、保険料などの支払いで貯金がなくなったといいます。調停員は、「あなたは若いし、慰謝料は諦めたらどうか」と私に言ってきました。浮気をされても慰謝料すら請求できないとは、とても悔しかったです。また、養育費についても、断固として「払えない」と主張していたといいます。そして「DNA鑑定をしろ」と要求してきたそうです。私にとっては、一樹と愛し合ってできた子どもですが、彼にとってはそうではなかったようです。しかもDNA鑑定の費用は、折半で払うように要求してきました。これには、調停員の方も半ばあきれた様子でした。DNA鑑定は強制できるものではないので、私は「いやです」と断りました。私が断ったことで、彼は自分の子どもではないからだとますます考えるようになったと思いますが、私はそれでもかまいませんでした。

 

しかも、一樹は「自分の本当の子どもだったら、自分が育てたい」と親権も要求したといいます。これには、呆れて何も言えませんでした。一樹が子どもを育てられるわけがありません。それに血がつながっているとわかってからといって、父親面をされることが許せませんでした。

 

また、一樹は今回の調停に、医者の診断書も持ってきていました。そこには「軽い鬱」と記載されていました。私は鬱になったことがないので、わかりませんが、彼は「自分がわからない」「働くことすらできない」などと鬱の症状を調停員に話していたといいます。

 

私は「少し考えます」と伝え、また話し合いが進まないまま、調停は終わりました。そして、次の調停がまた1か月後に設定されました。2回目の調停を終えると、私は精神的にとても疲れてしまい、次の調停ですべてを終わりにしたいと思うようになりました。養育費など、絶対にあきらめないと思っていたのに、調停をしていると、自分の意思がどんどんと弱っていくのがわかりました。「私が我慢すればよいのでは」と気持ちが弱気になっていきました。離婚したいのにできないことと、愛していた人が変わってしまったことへの辛さからか、私は自分がどうしたらいいのかわからなくなっていました。

 

次の調停までの間、私は簿記の勉強を始めることにしました。以前の会社では経理を担当していたので、次もその職歴を活かした仕事に就きたかったのです。3級は持っていたので、2級をまず目指すことにしました。子育てと勉強をしている間は、なんとなく一樹のことを考えずにすみました。

 

そんな中、3回目の調停がやってきました。息子は7ヶ月になりました。この日、調停には友人についてきてもらうことにしました。私は子育て、勉強、調停のことで体重が7キロほど減り、そんな私の様子を心配した友人が、「私も一緒に行く」と言ってくれたのです。調停に行くと、一樹の姿がありました。彼にはまたお母さんが付いてきていました。友人には待合室で待っていてもらい、私は調停室に行きました。調停員の人に、私の希望を伝えました。まず、慰謝料は要求しない。ただ、子どもの養育費は払ってほしいと。その後、調停員は一樹と話をし、私の希望を伝えました。しかし、彼はやはり養育費は払えないと主張したようです。その後、私はまた調停室に呼ばれ、「子どもに一生会わないのであれば、養育費は求めない。一樹は父親でも何でもない。一生私たちには近づかないように」と条件を調停員に伝えました。養育費は子どもの権利ですが、これ以上私は調停を長引かせたくありませんでした。ただ、「面会をすることは父親の権利なので、会わせないことを強制はできない」と調停員にいわれました。しかし、養育費を払わないのであれば、私は一樹に一生子どもを会わせるつもりがないことを調停員に強く伝えました。養育費も払わないのに、子どもに会いたいなんて、私は絶対に認めたくありませんでした。

 

調停員は、「あなたの気持ちはわかる。ただ強制はできないの」と前置きをしたうえで、調停員は私の希望を一樹に伝えると言い、私は待合室に戻りました。20分ほど経ち、調停員の一人が、離婚することになったことを伝えに来ました。私はまた調停室に行き、彼が息子に一生会わないことで養育費は払わないことを承諾したことを聞かされました。一樹には、息子への愛は全くなかったのです。親権がほしいというのも、結局口だけだったのだと思います。

 

調停員の人に「これでいいですか?」と言われ、私は承諾をしました。そして、3回目の調停で離婚が確定しました。その後、離婚についてサインなどがあるため、一樹と私は同じ部屋に呼ばれました。会いたくなかったですが、これが最後だと思い、淡々と離婚の手続きについての話、そして離婚同意書にサインをしました。その後、私が離婚に関する書類を役所に持っていけば、正式に離婚できると説明を受けました。私は調停が終わると、友人のところへ行き、離婚が正式に決まったことを伝えました。彼女は、ほっとした表情を浮かべ「今日は飲みにでもいこうか」と誘ってくれました。子どもが生まれてから、お酒を飲むこともなかったので、彼女の誘いに乗ることにしました。しかし、その日は、飲みながら涙が止まらず、大変でした。息子への申し訳ない気持ちと、一樹へのなんとも言えない想いが、私を襲いました。彼女は、そんな私をやさしく慰めてくれました。きっと一人では乗り越えられなかったと思っています。

 

実家に戻り、数日後に離婚の手続きをしに役所に行き、私たちは正式に離婚をしました。結婚から2年。短すぎる結婚生活に幕を閉じました。いまだに彼がどうして変わってしまったのか、本当の理由は分かっていません。きっと私の妊娠中にした浮気が、本気になったのだと思っています。

 

それから、一樹は連絡先も変え、私は連絡を取るすべもありません。彼が何をしているのか、彼がどこにいるのかもわかりません。私は、マンションの鍵を彼の実家に送りましたが、連絡は全くありません。

 

私は離婚から半年後、やっと仕事も決まり、今は実家の近くでアパートを借りて、生活をしています。シングルマザーで、子どもも小さいため、面接すら受けられない会社がいくつもありました。就職が決まるまでは20社ほど面接を受けました。そして何とか小さな不動産会社に就職が決まりました。土日も出勤ですが、休みの日は両親が見てくれています。最初は大変でしたが、シングルマザーとしてなんとか子どもと2人で生活ができています。実家で暮らしていないのは、自立をしたかったからです。離婚をしたことに後悔はありませんが、今でも息子には申し訳ないと思っています。父親と過ごせるはずの日々を私は奪ってしまったからです。ただ、息子が将来一樹に会いたいと言えば、一樹の連絡先はわからないので、私は彼の実家に息子が会いたがっていることを手紙で伝えたいと思っています。返事が来るかはわかりませんが、息子の気持ちを尊重したいと思います。私は今でも一樹のことは恨んでいますが、今は子どもとの生活をしていくことで後悔している暇はありません。日本には、養育費をもらっていないシングルマザーは多くいるといいます。自分がその立場になって思いますが、子どものためにも、父親である以上養育費はちゃんと払ってほしいと思います。

 

離婚は、とてもつらく、二度と味わいたくない嫌な経験です。しかしこれからは父親がいなくても、笑顔があふれる家庭を息子と2人で築いていきたいと思っています。

相談無料フリーダイヤル tel:0120-59-2312


PAGE TOP