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離婚にまつわるコラム

縁の切れ目が金の切れ目

「金の切れ目が縁の切れ目」という言葉がありますが、私の離婚の場合「縁の切れ目が金の切れ目」だったように思います。私が離婚を決意した一番の原因は、「信じることが出来なくなっていたこと」だと思います。

 

前夫と出会ったのは、私が20代前半の頃でした。彼との共通の趣味を持った知人たちとの日帰り温泉へ行った時のメンバーでした。彼は私より一回り年上でした。彼は小さいながらも会社を経営し、多趣味で会話も豊富。私はそんな彼に惹かれるようになり、その後、私からのアプローチをきっかけに交際し、結婚に至りました。

 

結婚生活は、とても楽しく、前夫は仕事を持つ私にも協力的で、休日は質素ながらも友人を自宅に呼んでは食事会を開いたり、平日も外食を楽しんだりととても幸せでした。ただ、一点の不安を除いては。

 

結婚式を挙げてから、1週間後、女性から電話がかかってきました。その人は前夫の元恋人でした。しかも、私と平行して付き合っていたのだと聞かされました。まだ結婚して有頂天の私は、「彼は私を選んでくれたんだし、今は縁は切れたみたいだし、まぁいっか。」と、問いただすことも無く黙っていました。その後、その事は胸にしまい何事も無く幸せな生活を送っていました。

 

しかし、ある日突然、前夫から「会社がなくなった」と告白されました。一瞬、何を言っているのかよく分かりませんでした。ただ、その時初めて、私は前夫の仕事のことを何も知らない事に気付いたのです。いえ、知っていたつもりでした。決算書も見てるし、2人の従業員の事も知っている。だけど、肝心の「実質的な状況」を知らなかったのです。

 

気持ちが焦りながらも、「知らなかったのは、私がちゃんと知ろうとしなかったせい。」「私が自分の勝手で他の会社でフルタイムで働いていたせい。」「会社がなくなっても、負債総額は大きくないはず。生活が厳しくても私が今まで通り働けばなんとか大丈夫。」と思い直し、前夫とともに頑張っていこうと気持ちを切り替えました。

というより、そうせざるを得ない状況でした。

会社の負債は多くないと言っても、取引先への支払期日は着実に近づき、状況を知っている取引先や債権者は支払えるのかとの連絡も絶えませんでした。とても、悩んでいられる状況ではありませんでした。

 

しかし、負債が少ないと思っていたのが間違いでした。前夫自身が借り入れをして、会社の運転資金にしていたのです。総額を知って愕然としました。幸い、不法な金利や取立てをする金融業者からは借り入れていなかった様なので、取立てのようなものはありませんでしたが、私の収入だけでは追いつかず、借りては返す日々が続きました。前夫は債権の回収を行っているはずでした。売掛金が入れば少しは何とかなると思っていました。

 

しかし、世の中は甘くありませんでした。前夫は、10万円ほどの回収は行ったものの、その後家に閉じこもっていたのです。いつも私が仕事から帰宅した後、あたかも外出していたかのように演技していたのです。私は職業柄、朝出勤したまま帰宅が深夜になることもあり、とても前夫の状況を見ている余裕がありませんでした。そしてそんな嘘も見破ることが出来なかったのです。

 

発覚したのは、私が体調を崩して会社を早退した時でした。家に居ないはずの前夫が家に居るのです。問い詰めたところ、どこにも行かず家に篭っていた事がその時初めて分かったのです。そして、それが更に悪状況となるはじまりでもあったのです。

 

その頃の前夫は、確かに言動におかしな部分がありました。ため息も多く、食事の量は減ったのにチョコレートだけを異常に食べたり、夜も眠れないようでした。私はただ会社の事や今後のことで悩んでいるせいだとばかり思っていました。私だって辛いんだから、悩んでるからと言って閉じこもられても困るわと、鬼の気持ちでいました。とにかく、毎日必死でした。

 

私はその状況を誰にも相談しませんでした。というよりプライドが邪魔して相談できませんでした。ただ、職場の友人はその頃の私を、「毎日怖い顔をして仕事していた」と言っていました。

 

こんなこと、恥ずかしくて誰にも言えない。こうなったのは私のせいでもあるのだから……と人に言うことが憚られ、親にも友人にも自分の状況を知られたくない気持ちでいっぱいでした。

 

朝から夜まで出勤し、帰宅したらベッドで横になっている前夫がいる。その状況に疲労感とイライラが募りました。そして、ついにどこか繋がっていた糸がプッツリと切れてしまったのです。「私だって辛いのに、なんで頑張ってくれないの?」「あなたのせいでしょ?」と怒鳴り、それ以上の暴言を吐きました。一度出ると止まることなく、次から次へと前夫への不満があふれ出てきました。言って悲しくなるくらい、どんどん文句が出て止まりませんでした。涙と暴言とが入り混じりながら出ました。

 

私は暴言も涙も鼻水も、ひとしきり吐き出したあと、ふっと前夫に目を向ける余裕ができ、様子を見てみると、前夫は一点を見つめて、

 

「ごめんな、もう死にたいよ」とポツリと言いました。

 

この時の目と全身から発せられる黒いオーラは、思い出したくなくても、思い出してしまうくらいゾッとする様な怖い印象でした。死にたいのはこっちよ、と内心毒づきながらも、ひとつの不安が生まれました。もしかして、精神的な病か、と。

 

その後も、前夫は食欲が更になくなり、チョコレートだけを異常に食べていました。夜は眠れないらしく、夜中の前夫の溜息で私も目が覚めることもよくありました。

 

そして、前夫の調子が良さそうな時に近くの精神科を受診させることにしたのです。診断の結果は、重度の鬱病。

 

目の前が真っ暗になりました。借金の返済に加えて前夫の闘病生活。この先どうすれば良いのか全く分かりませんでした。それでも、「ごめんね、ごめんね」と言う前夫を見ていると、「私が追い詰めたのかも……」「私が病気にさせてしまったのかも」「私が頑張らなければ」という気持ちになりました。

 

今から考えると、会社のことも借金のことも、病気のことも、私がここまで背負い込む事はなかったのかもしれません。そして、都合の良いことばかり言う前夫にもっと不信感を抱いても良かったのかも知れません。自分で思い返しても、なんてバカな女なんだろうと自分を笑いたくなります。

 

しかし、その時は、それが見えないのです。親にも知人友人にも知られたくない。

 

「私がこの人を選んでこんな状況になって、こんな私、恥ずかしくて人に言えない。」「それに借金の事とか言えば迷惑をかける。」

 

そればかり考えていました。

 

そして、第三者に相談することなく、仕事、借金して返済、前夫の看病という負の生活サイクルを繰り返していました。

 

鬱病というのは、厄介なものです。目に見えない傷に触れないように、そして気を使わせずにリハビリに持っていく。1日の中でも、調子の良いときと悪いときがあるので、それを見ながら対応を変えなければいけません。一人では通院できないというので、残業せずに帰らなければいけない事も度々ありました。

 

毎日くたくたでした。けれども、この時の私は、「私がやらなければ」「私は妻なのだから支えるのが当然なのだ」「夫が大変なのだから、私が努力しなければ」という気持ちで溢れていました。

 

いえ、自分でそう思い込もうとしていました。じっくり考えると、逆に発狂しそうな不安に襲われるからです。会社がその後どうなったのか、債権の回収もどうなっているのか、もう分かりませんでした。そのまま、知らないままで居たかったのです。

 

ただ、後に1人だけ10万円を前夫に借りたと、返済に来てくれました。その人が大変だった時、前夫が何も言わずに貸した10万円なのだそうです。返済が遅くなって申し訳ないと侘びを言われましたが、その時は、嬉しくて涙が出そうになりました。

 

苦しくても頑張ろう。そう思った頃でした。

 

就業中に何故か前夫からのメールを受信しました。前夫は普段は昼間、家で寝ている為、滅多にメールをやり取りするような事もありません。しかも、彼はいつも「病気のせいか、メールを見るのも苦しくなるから嫌だ」と言ってたくらいなのです。

 

不審に思いながらメールを見てみると、『今日は一日暇だよ。Hちゃんは何してるの?』(といった様な内容)の文言が目に入りました。

 

その瞬間、頭蓋骨を叩き割られたような衝撃を受けました。言い回しではなく、本当に激しい頭痛に襲われました。その後も激しい頭痛に耐えられず、病院へ運ばれてしまいました。診断は偏頭痛と言われ、薬を処方されて帰ったのでたいした事はありませんでした。

 

しかし、心は空洞で放心状態でした。「Hちゃん」とは、前夫が私と結婚前に付き合っていた元カノなのです。おそらく、Hちゃんに送付するメールを誤って私に送信したのでしょう。

 

私は一体なにをしているのだろうか、彼にとって私は何なのだろうか……そう思った途端に、涙が出て止まりませんでした。

 

不思議なことに具体的な恨みや憎いという言葉は何も思いつかず、ただただ自分がとても惨めに思えたのです。その時は電車に乗る気力もなく、贅沢と思いながらもタクシーに乗り、放心状態のまま帰宅しました。

 

帰宅すると、前夫は送信ミスに気づいていたらしく、「今日は久しぶりにメールを見る元気があった」といい始めました。私が「Hちゃんとはまだ連絡とってるの?」と聞くと、ひたすら謝罪を述べてきました。その時はもう右から左へ音声がただ流れているかのような感覚で何も聞こえていませんでした。

 

夫の言い訳が一通り耳を通過した後、おそらく私が一番言いたかったけど自分で封印していたであろう言葉が勝手に出てきました。

 

「離婚して」

 

一度言葉に出して言うと、急に自分の中で何かが固まりました。

 

前夫は、「病気がまだ治っていないから、病気のせいだ」「Hちゃんとは会っていないから悪いことはしていない」「お前に怒られると苦しくて仕方ない」と理不尽な言い分を言い続けていました。

 

私は本当に馬鹿だと気づかされました。おそらく、前夫は元々そういう人間だったのでしょう。私が盲目になっていて、本質を見ることができなかっただけなのです。会社のことも元カノのことも病気のことも本当なのかどうなのか、もう理解できなくなっていました。

 

私の離婚の意思は変わることはありませんでしたが、前夫は離婚について断固として反対しました。

 

ここからが、新たな苦痛の始まりでした。前夫の病気はやはり嘘ではないらしく、医者からも「今は家族の支えが一番大切です。繊細な時期なので自殺など注意してください」と言われました。

 

また「鬱病の方はたまに、こんな自分と一緒に居るのは配偶者に迷惑をかける、と患者さん自ら離婚を切り出す人もいます。真に受けず、奥さんが味方である事を伝えてあげてください」とも言われました。

 

まさか、私から離婚を切り出しましたとも言えず、「わかりました」と言う自分が、ますます情けなく感じました。離婚したくても離婚できない状況となってしまったのです。もう、夫婦でやっていけないと思いつつも、やはり一度は家族となって絆を築いてきた相手です。自殺の危険性があり病気の前夫を見捨てることは出来ませんでした。

 

心の中で、いつも葛藤がありました。もう、私の気持ちは夫婦に戻ることも出来ません。だから、このまま心を鬼にして逃げてしまおうという気持ちと、せめて前夫が自分で自立できるようになるまでは支えなければという気持ちが入り混じっていました。もしかすると、私が無理に離婚を強行しようとしたら、自分一人で借金を背負うことになるのかもしれないという不安があったのかもしれません。私名義の借り入れではありませんが、本人が鬱病などで収入がなく支払い能力がない場合は妻の負担になるのかと思っていたからです。調べたりすれば良かったのでしょう。しかし、朝から仕事に出かけ、夜遅くに帰宅して家事をこなし、鬱病について調べたり、期限目前の返済計画を立てていると、とにかく1日30時間あっても足りないくらいだったのです。

 

ここまでの前夫を見ると、最低な男と思われるでしょう。ただ、前夫だけが悪いわけではないのです。それを見極められなかった私、そういう行動をとらせた私にも責任があるのだと思います。私の行動ひとつで、もしかしたら何かが変わっていたのかもしれません。前夫にとって私と結婚したことが前夫にとっても不幸だったのかもしれません。

 

もちろん、前夫は素敵な男性だった時もあったのです。私を心身ともに守ってくれたこともあったのです。夫婦は、どちらかだけが「悪い」という事はないのだと思います。どこかでお互い様なのです。だからと言って、すべてを我慢するべきものでもないと思います。お互いの良い面、そして自分が悪かったことを反省して、相手の悪かったことを許せるかということも総合して、夫婦家族としてやっていけるかどうかを判断しないといけないのだと思いました。

 

私は、それでも「離婚」という道を選びました。

 

何故なら、私にとってだけでなく、前夫自身にとっても私との生活はマイナスだと感じたからです。私についた嘘、それは前夫が嘘つきだっただけではなく、私と居ると「嘘」をつかなければいけない状況だったのかも知れないからです。もし、一人や別の誰かと生活していたら前夫は嘘をつくような生活ではなかったかもしれません。誰だって好きで「嘘」のある生活をしたい訳では無いと思います。だから、前夫は私への愛情があったから離婚を拒否したというより、自分の生活が脅かされると考えて離婚を拒んでいるのではないかと思いました。

 

医者には、彼を支えてあげるよう言われましたが、これ以上この状態が続くと今度は私が病気になってしまう。そう思い、前夫へ離婚について説得を始めました。

 

前夫は自殺も仄めかしてきましたが、「もう、なるようになれ!」という気持ちで説得にあたりました。

 

「心中してくれ」と言われた事もありました。今から考えると、本当に恐ろしいことです。

 

離婚の承諾に向けて、私が出した条件は、ひとつは、離婚しても、同居を続ける。そして、借り入れについて債務整理をし、私が連帯保証になっているものだけ私が支払う。この2点でした。

 

それでも、離婚は拒否されました。

 

前夫は「借金はお前には負担させないし、今まで支払ってくれた分もお前に絶対返す」「離婚したら他の男のところに行くに決まってるから離婚しない」と言いつづけていました。

 

私に別の男性など居ませんし、そんな余裕もありません。前夫が私に負担させないと言っているのも返せる根拠は何もないのです。

 

私が出した条件のひとつである「離婚しても同居を続ける」というのは、離婚しても前夫の病気が治り、普通に社会生活を送り自立できるようになるまでは支える義務があると思っていたからです。それに、こんな状態の前夫を放っておく事はできないという気持ちが大きかったように思います。

 

離婚すると決めたものの、一度は家族となった相手です。愛した相手なのです。妻として支えていくことが辛くて苦しくなったからと言って、無責任に放り投げる事はできませんでした。

 

もしかすると同居していたかったのは私のほうだったのかもしれません。

 

離婚したい気持ちと、まだ一緒にいたい気持ちが交互にありました。不思議な感情です。今まで感じたことの無い矛盾した感情に自分自身が戸惑い、離婚を考える私が間違っているのではないだろうか、私がワガママなだけなのではないのかという思いに何度も悩まされました。

 

自分ひとりで考えてしまうと、先が何も見えず無限ループに陥ってしまうため、やっと友人に相談しました。結婚のときに婚姻届の証人となってくれた人です。

 

彼女に今までの事を話し、離婚したいと伝えました。

 

彼女は、じっと私の話を聞いてくれました。そして、「あなたが、自分の気持ちに正直になれる道を選んだ方が良いよ。相手のことよりまず自分が幸せにならなきゃ。いっぱい頑張ってきたんだから。その選択が離婚でもいいと思う」と言ってくれました。

 

この言葉を聞いて、涙が止まりませんでした。彼女に話してとても気持ちがラクになり、自分の選択が悪いことではないと思うことができて一気に肩から力が抜けてしまったのかもしれません。

 

ただ、前夫との共通の友人でもあるため、彼女のもう一人の友人でもある前夫の悪口につき合わせてしまったと、少し後味の悪い気持ちが残ってしまいました。

 

人生のマイナスの出来事を相談するというのは、意外と難しいものだなと感じました。

 

人に話すことで、気持ちが楽になったり客観的に見えるものがあったりと、良い効果がある反面、人の人生を決める大事なことに簡単にアドバイスできないという責任を相手に与えてしまう可能性もあると思うからです。その時は、そこまで考える余裕は全く無く、彼女の言葉のおかげで気持ちが楽になりましたが、自分の恥を晒しているような気持ちもあり自分で自分を反省したりもしました。

 

前夫は、私が離婚したいと言ってからも、毎日何事も無かったかのように接してきていました。なので、離婚を成立させるためには、自分から毎回切り出すしかありません。離婚の話を切り出す時が、一番胃が痛くなる瞬間でした。私だってわざわざ日常的に険悪な状況を作りたいわけではないのですから。相手を認めて受け入れるとかではなく、今までの事を無かったことに出来たらどんなに楽かと何度も思いました。私が署名した離婚届も3度破られました。婚姻届は書き間違えたとき用にと2部くれましたが、在住の区役所は離婚届は1部ずつしかくれなかったため、結局何度も貰いに行くこととなりました。離婚届の方こそ予備は複数枚必要なのではないかと、つくづく感じました。取りに行くのも本当に恥ずかしく嫌なものでした。

 

けれど、そこで諦めたら何も先に進まず決して良い解決方法ではないと思い、わざと家から遠くの区役所の出張所で予備の分も貰い、毎日離婚を承諾してくれるようお願いしました。毎日毎日、仕事から帰宅後に話し合いをしていました。話し合いと言っても私が一方的に話して説得しているような形でした。前夫は「何もしゃべらない」と決めていたようで、離婚話の時には何も言葉を発しませんでした。

 

離婚して欲しいとお願いしていると、何故だか楽しかった時の事を思い出すことも多々ありました。借金のことや元カノとのメールのことなど忘れてしまいそうになる時もありました。出来ることなら負の出来事は全て忘れてしまいたいとも思いました。こんな事を言っている私をおかしいと思われるかもしれません。けれども、心のどこかで今この辛い状況から逃げたい私が居たのです。

 

でも、ここで離婚を踏みとどまっても、結局信頼関係のなくなった前夫と暮らしていくうちに、また同じような状況になってしまうと思いました。良いときはいいけれど、前夫が何か起こすのではないかという不安や心配と付き合っていくのは無理だと思いました。

 

前夫の借金は約500万円、その内私が連帯保証人になっていた金額は100万円でした。離婚したあと一人で100万円を返済できるのかどうかの不安もありました。しかし、前夫と一緒に返済しようとすると家計的に500万の借金があり、前夫が社会復帰できない以上、私に負担が来るのは目に見えています。

 

やはり、離婚するべきだ。何度も話しているうちに、やっと強く思うことが出来たのです。離婚話を切り出してから2ヶ月程たった頃だったと思います。前夫が離婚を承諾してくれました。

 

きっかけは、私の一言でした。

 

「離婚はしない。だけどこれ以上同じ状況に身をおいていると、私がおかしくなりそうなの。だから私は出て行きたい。暫く冷却期間をおきたい」と。

 

もちろん、新しく部屋を借りるなんてお金はありません。どうするか決めないまま切り出した言葉でした。

 

前夫は、「離婚しても同居」と「離婚せずに別居」では、前者を選択しました。もしかすると、前夫自身ももう疲れて限界だったのかもしれません。徐々に安定剤の服薬量も増えていました。

 

そして、4枚目のくしゃくしゃになった離婚届にようやくサインと印鑑を貰うことができました。

 

書いてもらう瞬間は、もっと悲しくなるのかと思っていましたが、気持ち的には営業で契約書にサインしてもらうときの気持ちと似ていました。思わず笑みがこぼれそうになりましたが、彼に「やっぱり、やめた」と言われないように、相手が書き終わるまでは冷静にならなければと言い聞かせていました。最後までサインしてもらえるか、筆運びを見ているのは本当に緊張しました。

 

最後、押印が終わった時、何故か涙が出てきました。

 

悲しい涙ではありません。ホッとして安心した涙でした。

 

前夫も涙を流していました。それは、どういう気持ちなのかは私には分かりません。けれど、「これで他人なんだ」と思うと、それはそれで寂しい気持ちにもなりました。

 

翌日、離婚届の提出は当然私一人で行きました。

 

その時、区役所の窓口の方に「姓はどうされますか? 戸籍はどうされますか?」と聞かれました。

 

普通は何もしなければ、そのまま旧姓に戻る(両親の元へ戻る)そうです。ただ、私の場合連帯保証になっている借金があります。もし、両親に知られたら、迷惑が掛かったら、そう思うと怖くなり、前夫の姓のまま別の戸籍を作成しました。

 

姓も本籍地も変わらない為、職場では私の離婚を知らない人が殆どでした。ある意味、何も詮索されずに済んだので精神的には良かったかもしれません。

 

実家の両親へは、提出したその区役所から電話で連絡しました。もちろん、事後報告です。両親は驚いていましたが、これ以上一緒に居ると私がおかしくなってしまう旨を大まかに話したところ、母は、

 

「そう結論出すほどの何かがあったのでしょう、分かった。何があったか知らんけど、頑張ったな」と言いました。

 

その時、一気に力が抜けて、区役所に居るのも忘れて声を出して泣いてしまいました。

 

私は学生時代、両親の離婚届を取りに行かされた事があります。しかし、両親は、離婚はしませんでした。母は「一緒になると決めた以上、離婚するのは自分の我慢が足りない証拠だ。離婚に逃げたらダメ。だから、やはりお父さんともう一度やってみる」と言っていました。それくらい、離婚に対して否定的だった母から、「頑張ったな」と言われて今まで張り詰めていたものが崩れていきました。

 

帰宅すると前夫は布団をかぶって寝ていました。

 

それまでは、そんな姿を見ていると、イライラが募り罵倒したくなる衝動に駆られたときも多々ありましたが、その時は平静な気持ちで居られました。

 

離婚したからと言って、生活や借金が変わるわけではありません。

 

けれど、精神的にとても楽になりました。仕事にも集中出来るようになり、笑顔も増えた気がします。自分が連帯保証になっている会社の返済の方は少し残金が減りましたが、それ以外は、既に行き詰ってきていました。「借りては返す」を繰り返すしかなかったのです。

 

そんな時、知らない金融会社から前夫宛に借入明細が届き、返済を要求してきました。金額は約15万円。しかも15年前のものでした。前夫は知らないと言い通していましたが、根拠の無い借り入れの返済を要求してくる訳もないと思い、その会社へ電話してみたところ「借り入れたときの詳細は残っていないが返済が必要な残金は14万いくら(詳細金額を忘れてしまいました)円となっています」との返答でした。

 

ここにきて、やっと法律相談に行こうと心に決めました。

 

法テラスという、国が設立した法律相談を行う機関で相談は無料だということなので相談予約を取りました。そこでの相談の回答は、15万円の返済請求してきたその会社には時効が過ぎているので支払う義務はありませんとのことでした。そして、内容証明を送ることを勧められました。また、前夫の借り入れと私が連帯保証人になっている件は債務整理か自己破産を提案されました。

 

法テラスへ行く前に少し調べましたが、弁護士に依頼すると、債務整理も自己破産も着手金や費用が何万円、何十万円になることもあると書いてあったため、その件は少し考えてからにしようと、その場での依頼はしませんでした。また、内容証明も弁護士に依頼すると1万円~3万円と言われました。その頃の私は体重が30kg台まで落ちて貧弱だった見た目のせいか、可愛そうに思われたのか、その弁護士は、ある本のページのコピーをとって私に渡してくれました。それは、債務の時効についての内容証明の書き方サンプルでした。

 

「これに置き換えて送ってみるといいですよ。それでダメならまた専門家に相談しください」との事でした。

 

今は、手書きしなくても良いそうで、その時はWordを使って書きました。形式などが決められているので、それに沿って設定して何度も読み返して、やっと送付することができました。費用は千円くらいで済みましたが、初めてのことなので気力を考えると2度と書きたくないものでした。

 

幸い、私が作成した内容証明を送付して以降、その会社から連絡も請求もありませんでしたが、複雑になっていたら専門家に依頼せざるを得なかったかと思うと、世の中を知らないと不利な事が多いなと思いました。

 

離婚届を提出した後も、前夫は「お前に負担させた分は必ず返す」と言っていました。私もいつか返済してくれるなら、少しは楽になるかもと思い、それを紙面上に残してもらおうと、それを前夫に伝えると一応書き始めるものの、「心が苦しくて病気が出てきた」と言って途中で投げ出してしまいました。

 

正直言って、100万円の返済は苦しいものです。少しは減るものの元本なんて全然減りません。その頃、昼の仕事に加えて夜はスナックでバイトしていました。両方とも向いていたのか精神的に苦痛はありませんでしたが、体力的に限界が来ていました。通勤の電車の中で倒れてしまいました。

 

「過労」でした。

 

同じ頃、前夫の体調も悪くなり、これを機会に前夫は実家へ戻りました。

 

前夫の両親へは、離婚届を提出した翌日、電話で今までの経緯を話し、離婚に至った旨を報告しました。前夫から彼の両親へは何も連絡してなかったそうです。

 

私と同じく前夫の両親も遠方でした。そのため頻繁に会う機会もなく報告する機会もなかったため、電話での事後報告となってしまいました。

 

幸い、私と前夫の両親の関係は良好だったので、腑に落ちない部分もあったようですが了承し、「今まで頑張ってくれてありがとう」と言われました。

 

私は両方の両親に恵まれていた事に、本当に感謝しました。

 

しかし、私に残されたのは、今の生活を支えなければいけない負担と借金返済だけでした。しかも体調が回復するまで働くことも制限されてしまいました。

 

生活がままならなくなり、ついに実家の両親へ助けを求めました。本来なら実家へ帰るべきなのかもしれません。しかし精神的に張り詰めていた状況から一転して甘えられる状況に身を置いてしまっては、私の精神状況がバランスを崩しそうだったのです。両親は、一度は実家へ帰って来いと言いました。しかし、私の状況とこれからの事を話し、両親は一人暮らしで頑張ることを応援すると言ってくれました。そして両親から100万円を借りることになりました。「返せるときに返してね」とだけ言って貸してくれました。今回の離婚に関して、精神的にも迷惑をかけたのに、それなのに何も責めずに黙ってお金を出してくれた両親に心から感謝しました。その100万円で私が連帯保証人になっていた借金は返済することが出来ました。こんな失敗をした私を悔やみ反省しました。そして、両親に早く返せるようにしたいと思いました。何故なら、家のリフォーム代として残していた分を私に貸してくれたからです。

 

体調を崩した状況で気持ちが弱く不安になっていたのか、それとも欲が出てしまったのか分かりませんが、前夫が負担してくれると言った言葉を思い出しました。

 

前夫も400万の借金を抱えている身です。悩みましたが、やはり連絡してみようと、前夫に電話をしてみました。

 

すると、前夫は自己破産の手続きを行っているところだと言うのです。しかも、私が連帯保証人になっている100万円の分は私に請求が行くからよろしくと言うのです。

 

その100万円はもう返済した旨を伝え、どうして私に何も言ってくれなかったのかと問い詰めましたが、病気でそれどころではなかったとの返答でした。

 

私が負担した分を払ってくれるかと問い詰めると、もう離婚したんだから払うつもりはないと言われました。離婚しなければ一緒に頑張ってお前にも返したのに。とも言われました。その上、返すって言った証拠なんてどこにもないから、俺は払わなくていいのだ。とも言われました。

 

信じたかった私が馬鹿だとは思います。でも、やはり最初に惚れてしまった弱みでしょうか、どこかで僅かでも信じたい気持ちがあったのかもしれません。

 

私の結婚生活は、見栄や変なプライド、騙されたと気づきたくない気持ちが強すぎて、盲目になっていたのだと思います。もしかすると、私の異常な見栄が彼をダメにしたのかもしれません。

 

離婚後、自分の生活も安定して気持ちも落ち着いてくると、結婚生活や離婚への経緯を振り返ると自分がとてつもなく馬鹿で情けなく思います。

 

結婚はもちろん、離婚も少なからず社会的に影響を及ぼすものです。それをひとりで抱え込むことが、余計に周囲に迷惑を掛け、自分の人生に必要以上のマイナスをもたらすのだと感じました。

 

一人の生活が安定しても、情緒は不安定になり疑い深くなった時期が暫く続きました。よく×イチはモテると言いますが、その通りです。私の離婚を知らない人は多かったものの、結婚を迫らない適当な遊び相手を探している男性に口説かれることは多かったと思います。おそらく、自分の情緒不安定なオーラが相手にも伝わるのでしょう。その頃の私は、暫くは男性と関わりあいたくなく、塞ぎ込んでいました。「私はバカな女だ」「また騙されるに決まってる」「私は病気の夫に酷い事をした女だ」と思いながら過ごしていました。この期に及んでも、まだ「病気の夫に悪いことをした」と思ってしまう事が自分でも不思議でした。罪悪感なのか、それともこれも私の変なプライドなのか分かりません。

 

仕事も、体調を崩した後、体調不良を理由に第一線から外され、好きだったプロジェクトからも外されました。別の部署での仕事はあったものの、空虚な時間が何日も何ヶ月も過ぎました。

 

もし、離婚を考えるきっかけが出来た時に、適切な人や機関に相談して、前夫との間も毅然とした態度で離婚に挑んでいたら、離婚後の私の精神状態も違ったかもしれません。新たな人生をもっと良い形でスタートできたのかもしれません。

 

離婚から9年が経ちました。今だからこそ、冷静に自分が馬鹿だったと笑うこともできます。こうすれば良かったと振り返ることもできます。しかし、当時は周りが見えず、自分の置かれた状況を理解することも出来ていなかったと思います。

 

年月はかかりましたが、私は離婚した事を後悔していません。むしろ、その選択が正しかったと思っています。前夫とは会うこともありませんし、同時に抱いていた罪悪感も憎む気持ちもありません。

 

あのまま一緒に居たらまた違う人生だったでしょう。だけど、今の私の笑顔はなかったかも知れません。前夫とは、縁とともに金も切れました。離婚下手な私にとっては、両方切れて幸せだったと思います。

 

そして、色々と迷惑を掛けたのに責めもせず、暖かく見守ってくれた家族に本当に感謝しています。

 

現在は、愛する男性と再婚しました。離婚したからと言って女性としての人生が閉ざされる訳ではありません。マイナスのループを抜け出す勇気が、女性を強くし、そして本当の幸せを得るチャンスになるのだと思います。

 

私は、2度と離婚は経験したくありません。

 

だけど、思いもせず不幸な事、状況が起きてしまって、相手より自分を信じたくなったら、離婚は必要だと思います。

 

離婚した私は、再婚云々以前に、幸せになりました。

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